と、申して居る位ですから、耶教でもなんでもかまひませぬ。以前、耶教徒の在園者が多かつた時は、讃美歌なり、御祈りなり、朝晩、みんなでやつたものださうです。それも、オルガン[#「オルガン」に傍点]を入れてブーカ/\[#「ブーカ/\」に傍点]やり、一方では又、仏党の人々が木魚をポク/\[#「ポク/\」に傍点]叩いて読経したのだと申しますから、随分、変珍奇《へんちき》であつたであらうと思はれます。現在では皆読経に一致して居ります。読経がすむと六時から六時半になります。それから皆てく/\[#「てく/\」に傍点]各自その日の托鉢先き(働き先き)に出かけて行くのです。園から電車の乗り場まで約半里はあります。そこからまづ京都の町らしくなるのですが、園の者は二里でも三里でも大抵の処は皆歩いて行く事になつて居ります――と申すのは無一文なんですから。先方に参りまして、まづ朝飯をいたゞく、それから一日仕事をして、夕飯をいたゞいて帰園します。帰園してから又一時間程読経、それから寝ることになります。何しろ一日中くたびれ果てゝ居ることゝて、読経がすむと、手紙書く用事もなにもあつたもんぢやない、煎餅のやうな布団にくるまつて其儘寝てしまふのです。園にはどんな寒中でも火鉢一つあつた事なし。夜寝るのにも、只障子をしめるだけで雨戸は無いのですから、それはスツパリ[#「スツパリ」に傍点]したものです。
扨、私が灯火に対して忘れる事の出来ない思ひ出と申しますのは、この、朝早くまだ暗いうちから起き出して来て、遙か山の下の方に、まだ寝込んで居る京都の町々の灯、昨夜の奮闘に疲れ果てて今暫くしたら一度に消えてしまはうと用意して居る、数千万の白たゝけた[#「白たゝけた」に傍点]京都の町々の灯を眺めて立つて居る時と、夜分まつ暗に暮れてしまつてから、其日の仕事にヘト/\[#「ヘト/\」に傍点]に疲労し切つた足を引摺つて、ポツリ/\[#「ポツリ/\」に傍点]暗の中の山路を園に戻つて来る時、処々に見える小さい民家の淋しさうな灯火の外に、自分の背後に、遙か下の方に、ダイヤかプラチナの如く輝いて居る歓楽の都……京都の町々のイルミネーシヨンを始め、其他数万の灯火の生き/\した、誇りがましい輝かさを眺めて立つて居た時の事なのです。此時の私の心持なのであります。此時の私の感じは、淋しいでもなし、悲しいでもなし、愉快でもなし、嬉しいでもなし、泣きたいでもなし、笑ひたいでもなし、なんと形容したら十分に其の感じが云ひ現はされるのであらうか、只今でも解りかねる次第であります。只、ボーツ[#「ボーツ」に傍点]として居るのですな。無心状態とでも申しませうか、喜怒哀楽を超越した感じ、さう云つた風なものでありました。而もそれが、いつ迄たつても少しも忘れられませんのです。灯火の魅力とでも申しませうか、灯火に引き付けられて居る状態ですな。灯火といふものは色々な点から吾人の胸底をシヨツクするものであると云ふ事をつく/″\感じた次第であります。此時の感じをうまく表現して見たいと思つたのですが、これ以上到底なんとも申し上げやうの無いのが遺憾至極であります。この位で御察し下さいませ。
次に、この毎日の仕事……園では托鉢[#「托鉢」に傍点]と申して居ります……之が実に種々雑多のものでありまして、一寸私が今思ひ出して見た丈けでも、曰く、お留守番、衛生掃除、ホテル、夜番、菓子屋、ウドン屋、米屋、病人の看護、お寺、ビラ撒き、ボール箱屋、食堂、大学の先生、未亡人、簡易食堂、百姓、宿屋、軍港、小作争議、病院の研究材料(之はモルモツト[#「モルモツト」に傍点]の代りになるのです)等々、何しろ商売往来に名前の出てないものが沢山あるのですから数へ切れません。これ等一つ一つの托鉢先の感想を書いても面白い材料はいくらでもありませう。さて、私がこれ等の托鉢を毎日々々やつて居ります間に、大に私のため[#「ため」に傍点]になることを一つ覚えたのであります。それはかう云ふ事です。百万長者の家庭には入つて見てもカラ/\[#「カラ/\」に傍点]の貧乏人の家庭には入つて行つて見ましても、何かしら、其家のなかに、なんか頭をなやます問題が生じて居る、早い話が、お金に不自由が無い家とすれば、病人が有るとか、相続人が無いとか、かう云つた風なことなのです。ですから万事思ふまゝになつて、不満足な点は少しも無いと云ふやうな家庭は、どこを探して見ても、それこそ少しも無い[#「少しも無い」に傍点]と云ふ事でありました。仏力は広大であります。到る処に公平なる判断を下して居られるのであります。それと今一つ私の感じたことは、筋肉の力の不足と云ふことです。これは私が在園中の正直な体験なのですが、幸か不幸か、死ぬなら死んでしまへとはふり出した肉体は、其後今日迄別段異状無くやつて来たのでしたが、只、人間も四十歳位になりますと、いくら気の方は慥であつても、筋肉、体力の方が承知を致しません。無理は出来ない、力は無くなつて居る。園の托鉢はなんと申しましても力を要する仕事が一番多いのでありますから、最初のうちは、ナニ[#「ナニ」に傍点]若い者に負けるものかと云ふ元気でやつて居つたものゝ、到底長続きがしないのです。ですから、一燈園には入るお方は、まづ、二十歳から三十二三歳迄位の青年がよろしいやうです。又実際に於て四十なんて云ふ人は園にはそんなに居りはしません。居つても続きません。私は入園した当時に、如何にも若い、中には十七八歳位な人の居るのに驚いたのです。こんな若い年をして、何処に人生に対し、又は宗教に対して疑念なんかを抱くことが出来るであらう?……而しまあ、以前申した年頃の人々には、よい修業場と思はれます。年輩者には駄目です。天香さんと云ふ人は慥にえらい人に違ひない。あの園が、二十年の歴史を持つて居ると云ふ点だけ考へてみても解ることです。そして、知能の尤もすぐれた人であります。茲に一つの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話を書いて置きませう。或日、天香さんと話して居たとき、なんの話からでしたか、アンタ[#「アンタ」に傍点]は俳句を作られるさうですな、と云ふ事なので、えゝ[#「えゝ」に傍点]さうです。どうです、一日に百句位作れますか? さすがの天香さんも、俳句については矢張り門外の人であつたのであります。園で俳句をやつて居る人々もあるやうでしたが、大抵、ホトトギス派のやうに見受けました。
いや、非常な大脱線で、且、大分ゴタ/\[#「ゴタ/\」に傍点]して来ましたから、此の入庵雑記もひとまづ此辺で打切らしていたゞかうと思ひます。筆を擱くにあたりまして、今更ながら井師の大慈悲心に想到して何とも申すべき言葉が御座いません。次に西光寺住職、杉本師に対しまして、之又御礼の言葉も無い次第であります。杉本師は、同人としては玄々子と称して居られますが、師は前一寸申上げた通り、相対座して御話して居ると、全く春風に頬を撫でられて居るやうな心持になるのであります。此の偉大な人格の所有主たる杉本師の庇護の下に、南郷庵に居らせていたゞいて居ると申しますことは、私としまして全く感謝せざるを得ない事であります。同人、井上一二氏に対する御礼の言葉は余りに親しき友人の間として、此際、遠慮さして置きます。扨、改めてお三方に深い感謝の意を表しまして、此稿を終らせていたゞきます。南無阿弥陀仏。
[#地から1字上げ](十四年、十一月五日)
底本:「尾崎放哉全集 増補改訂版」彌生書房
1972(昭和47)年6月10日初版発行
1980(昭和55)年6月10日増補改訂版発行
1988(昭和63)年10月20日増補改訂二版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2006年1月2日作成
2007年10月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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