入庵雑記
尾崎放哉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)竈《かまど》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)蝉声|※[#「口+彗」、215−4]々《けいけい》

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(例)※[#「口+彗」、215−4]々

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しと/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    島に来るまで

 この度、仏恩によりまして、此庵の留守番に坐らせてもらふ事になりました。庵は南郷庵と申します。も少し委しく申せば、王子山蓮華院西光寺奥の院南郷庵であります。西光寺は小豆島八十八ヶ所の内、第五十八番の札所でありまして、此庵は奥の院となつて居りますから、番外であります。已に奥の院と云ひ、番外と申す以上、所謂、庵らしい庵であります。
 庵は六畳の間にお大師様をまつりまして、次の八畳が、居間なり、応接間なり、食堂であり、寝室であるのです。其次に、二畳の畳と一畳ばかしの板の間、之が台所で、其れにくつ付いて小さい土間に竈《かまど》があるわけであります。唯これだけでありますが、一人の生活としては勿体ないと思ふ程であります。庵は、西南に向つて開いて居ります。庭先きに、二タ抱へもあらうかと思はれる程の大松が一本、之が常に此の庵を保護してゐるかのやうに、日夜松籟潮音を絶やさぬのであります。此の大松の北よりに一基の石碑が建つて居ります。之には、奉供養大師堂之塔と彫んでありまして、其横には発願主圓心禅門と記してあります。此の大松と、此の碑とは、朝夕八畳に坐つて居る私の眼から離れた事がありません。此の発願主圓心禅門といふ文字を見る度に私は感慨無量ならざるを得ん次第であります。此の庵も大分とそこら中が古くなつて居るやうですが、私より以前、果して幾人、幾十人の人々が、此の庵で、安心して雨露を凌ぎ且はゆつくりと寝させてもらつた事であらう。それは一に此の圓心禅門といふ人の発願による結果でなくてなんであらう。全く難有い事である。圓心禅門といふ人は果してどんな人であつたであらうかと、それからそれと思ひに耽るわけであります。
 東南はみな塞つて居りまして、たつた一つ、半間四方の小さい窓が、八畳の部屋に開いて居るのであります。此の窓から眺めますと、土地がだんだん低みになつて行きまして、其の間に三四の村の人家がたつて居ますが、大体に於て塩浜と、野菜畑とであります。其間に一条の路があり、其道を一丁計り行くと小高い堤になり、それから先きが海になつて居るのであります。茲は瀬戸内海であり、殊にズツと入海になつて居りますので、海は丁度渠の如く横さまに狭く見られる丈でありますけれども、私にはそれで充分であります。此の小さい窓から一日、海の風が吹き通しには入つて参ります。それ丈に冬は中々に寒いといふ事であります。
 さて、入庵雑記と表題を置きましたけれども、入庵を機会として、私の是迄の思ひ出話も少々聞いて頂きたいと思つて居るのであります。私の流転放浪の生活が始まりましてから、早いもので已に三年となります。此間には全く云ふに云はれぬ色々なことがありました。此頃の夜長に一人寝てゐてつくづく考へて見ると、全く別世界にゐるやうな感が致します。然るに只今はどうでせう。私の多年の希望であつた処の独居生活、そして比較的無言の生活を、いと安らかな心持で営ませていたゞいて居るのであります。私にとりましては極楽であります。処が、之が皆わが井師の賜《たまもの》であるのだから、私には全く感謝の言葉が無いのであります。井師の恩に思ひ到る時に私は、きつと、妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五を朗読して居るでありませう。何故なれば、どう云ふものか、私は井師の恩を思ふ時、必ず普門品を思ひ、そして此の経文を読まざるを得ぬやうになるのであります。理窟ではありません。観音経は実に絶唱す可き雄大なる一大詩篇であると思ひ信じて居ります。井師もきつと共鳴して下さる事と信じて居ります。猶、此機会に於て是非とも申させていたゞかねばならぬ事は西光寺住職杉本宥玄氏についてであります。已に此庵が西光寺の奥の院である事は前に申しました通り、私が此島に来まして同人井上一二氏を御尋ね申した時、色々な事情から大方、此島を去つて行く話になつて居りましたのです。其時、此庵を開いて私を入れて下すつたのが杉本師であります。杉本師は数年前井師が島の札所をお廻りになつた時に、井上氏と共に御同行なされた方でありまして、誠に温厚親切其のものの如き方であります。師とお話して居ますと自ら春風駘蕩たるものがあります。私は此尊敬す可き師の庇護の下に此庵に坐らせてもらつて居るので、何と云ふ幸福でせうか――。又、同人井上氏の御同情は申す迄も無く至れり尽せりでありまして、是等一に、井師を機縁として生じて来たものであると云ふ事に思ひ到りますれば、私は茲に再び、朗々、観音経を誦さなくてはならない気持となるのであります。
 丁度明治卅五年頃の事と覚えて居ります。其頃、井師も私も共に東京の第一高等学校に居りました。井師は私よりも一級上級生といふわけで、其頃は俳句――新派俳句と云つた時代です――が非常に盛で、其結果「一高俳句会」といふものが出来、句会を開いたものでした。句会は大抵根津権現さんの境内に小さい池に沿うて一寸した貸席がありましたので、其処で開きました。そこの椎茸飯といふのが名物で、お釜で焚いたまんまを一人に一つ宛持つて来ましたが中々おいしかつた、さうした御飯をたべたり御菓子をたべたりなんかして、会費は五十銭位だつたと記憶して居ます。いつでも二十人近く集りましたが、師匠格としてきまつて、虚子、鳴雪、碧梧桐の三氏が見えたものです。虚子氏が役者見たいに洋服姿で自転車をとばして来たり、碧梧桐氏の四角などこかの神主さん見たいな顔や、鳴雪氏のあの有名な腹燗なんかの事を思ひ出しますのですよ。其当時の根津権現さんの境内はそれは静かなものでした。椎の木を四五尺に切つて其を組合せて地上に立てゝ、それに椎茸が生えて居るのを眺めたりなどして苦吟したものでした。日曜日なんかには、目白の啼き合せ会なんか此境内でやつたのですから、それは閑静なものでしたよ。
 処で私は三年の後、一高を去ると共に、此会にも関係がなくなりました。そして井師は文科に、私は法科にといふわけで、一時、井師との間は打ち切られて、白雲去つて悠々といふ形でありました。処が此縁が決して切れては居りませんでした。火山の脈のやうに烈々として其の噴出する場所と時期とを求めて居たものと見えます。世の中の事は人智をもつてしては到底わかりつこ[#「わかりつこ」に傍点]ありませんね。其後、私は已に社会に出て所謂腰弁生活をやつて居たわけであります。そして茲に機縁を見出したものか、層雲第一号から再び句作しはじめたものであります。それからこつちは所謂絶ゆるが如く絶えざるが如く、綿々縷々として経過して居ります内に、三年前の私の放浪生活が突如として始まりまして以来は、以前の明治卅五六年時代の交渉以上の関係となつて来た訳なのであります。そこで、私が此島に参りまする直前、京都の井師の新居に同居して居りました事を少し話させていたゞきませう。井師の此度の今熊野の新居は清洒たるものではありますが、それは実に狭い。井師一人丈ですらどうかと思ふ位な処へ、此の飄々たる放哉が転がり込んだわけです。而も蚊がたくさん居る時分なのだから御察し下さい。一人釣りの蚊帳の中に、井師の布団を半分占領して毎晩二人で寝たわけです。其の狭い事狭い事、此の同居生活の間に私は全く井師に感服してしまつたのです。鋒鋩は已に明治卅五六年頃から有つたのではあるが、全く呉下の旧阿蒙に非ず、それは其後の鎌倉の修業もありませうし、母、妻、子に先立たれた苦しい経験もありませう。又、其後の精神修養の結果もありませうが、兎も角偉大なものです。抱擁力が出来て来たのであります。井師は私に決してミユツセン[#「ミユツセン」に傍点]と云つた事がありません。一度も意見がましい言葉を聞いた事が無いのであります。それで居て、自分で自然とさうせざるを得ぬやうな気持になつて来るのであります。之が大慈悲でなくてなんでありませう。
 井師の新居に同居してゐた間は僅の事でしたけれども、其私に与へた印象は深甚なものでありました。井師と二人で田舎路を歩いて居た時、ふとよく晴れた空を流れてゐる一片の白雲を見上げて「秋になつたねえ」といふたつた[#「たつた」に傍点]一言に直に私が共鳴するのです。或る夕べ、路傍の行きずりの小さい、多分子供の、葬式に出逢つて極めて自然に、ソツ[#「ソツ」に傍点]と夏帽をとつて頭を下げて行く井師にすぐと私は共鳴するのです。二人で歩いて居て、井師も亦、妻も児も無い人なんだなと思つてつくづく見ると、其の着物の着方が如何にも下手[#「下手」に傍点]くそなのです。而も前下りかなんかで、それを誰も手をかけてなほしてくれる人も今は無いのだ。何時でも着物の着方の下手くそ[#「くそ」に傍点]なので叱られて居た私は、直に又共鳴せざるを得ぬのです。下駄の先鼻緒に力を入れて突つかけて歩くもの故、よく下駄の先をまだ新しいうちに壊してしまつたり、先鼻緒を切つたりした自分を思ひ出すと、井師が又其の通り、又共鳴せざるを得ませぬ。其外、床の間の上に乗せてあつた白袴……恐らくは学生時代のであつてほしかつたが……一高の寮歌集等々、一事、一物、すべて共鳴するものばかり。僅かの間の同居生活でしたけれども、私にとつては、実に異常なもので有つたのであります。
 井師は今、東京に帰つて居らるゝ日どりになつて居る。なんとなく淋しい、京都に居ると思へば、さうでもないのだが、東京だと思ふと、遠方だなと云ふ気持がして来るのです。私は茲で又、観音経を読まなければならぬ。机の上には、いつでも此のお経文が置いて有るのですから――。扨、私は此辺で一寸南郷庵に帰らせていたゞいて、庵の風物其他につき、夜長のひとくさりを聞いていたゞきたいと思ふのであります。
[#ここから2字下げ]
我昔所造諸悪業。  皆由無始貪瞋癡。
従身口意之所生。  一切我今皆懺悔。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

    海

 庵に帰れば松籟颯々、雑草離々、至つてがらん[#「がらん」に傍点]としたものであります。芭蕉が弟子の句空に送りました句に、「秋の色糠味噌壺も無かりけり」とあります。これは徒然草の中に、世捨人は浮世の妄愚を払ひ捨てゝ、糂汰瓶《じんだびん》ひとつも持つまじく、と云ふ処から出て居るのださうでありますが、全くこの庵にも、糠味噌壺一つ無いのであります。縁を人に絶つて身を方外に遊ぶ、などと気取つて居るわけでは毛頭ありませんし、また、その柄でも勿論ないのでありますから、時々、ふとした調子で、自分はたつた一人なのかな[#「一人なのかな」に傍点]、と云ふ感じに染々と襲はれることであります。八畳の座敷の南よりの、か細い一本の柱に、たつた一つの脊をよせかけて、其前に、お寺から拝借して来た小さい低い四角な机を一つ置いて、お天気のよい日でも、雨がしと/\降る日でも、風がざわ/\吹く日でも、一日中、朝から黙つて一人で坐つて居ります。
 坐つて居る左手に、之も拝借もの……と云ふよりも、此庵に私がはいりました時残つて居つた、たつた一つの什器であつた処の小さな丸い火鉢が置いてあるのです。此の火鉢は殆ど素焼ではないかと思はれる程の瀬戸の黒い火鉢なのですが、其の火鉢のぐるり[#「ぐるり」に傍点]が、凡そこれ以上に毀す事は不可能であらうと思はれる程疵だらけ[#「だらけ」に傍点]にしてあります。之は必ず、前住の人が煙草好きであつて、鉄の煙管かなんかでノベツにコツンコツン[#「ノベツにコツンコツン」に傍点]毀して居た結果にちがひないと思ふのです。誠に御丹念な次第であります。此の外には道具と申
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