うと云ふ女が現れたかね」
 結婚したい、とはこれまでにも口にしなかつたわけではない。彼は自分が早くかつ子と一しよになつたのが不満であつた。年長の兄を差置いてと云ふ理由から、父が生きとつたら、こんな順序を心得ぬ淫《みだ》らな真似はさせん、とよく云つた。
「――まだはつきりしたことは発表出来ん、しかし、時日の問題ぢや、僕は婚約時代の気持でゐる、それよりも、気いつけた方がええぞ、かつ子は、僕が店へ行くのをいやがりよるが、ありや、僕が煙たいんぢやろ、仇《あだ》し男《をとこ》との秘密を見られるのを恐がつとるのぢや、ぼやぼやしとると、寝とられて了ふぞ」
 それ以来、彼はかつ子の不貞を自分に思ひ込ませようと熱心になつてゐる。けさも、彼女が彼をまるで相手にせず、早番なので急いで出かけたあとでは、あれは男と約束してよる、確にまちがひない、尾行して現場を押へてやろか、と口惜しがつてゐた。
「――何でまたあんな浮気な店に出した、ちやんとええとこにつとめてをつたのに」
 さう云はれて見ればさうも思へる。徴兵保険会社にゐたのを、れいの茶房が出来て、月給が十五円ばかりいいと聞いたので、友だちの紹介で入れて貰つたの
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