きてゐると云ふ大事実の意識に、薬を飲む前の昂奮をはづかしく省みたせゐではないか。とにかく、それから、逢はなくなつて了つたのです。学校を欺いて、夜昼なしに姿を見なければ承知出来なかつた二人が、ふつつり逢ひたくなくなつたものだから人間の心理は分らない。自分たちはよろけながら、滑りさうになる夜の坂道を帰つた。二人とも一言も云はなかつた。五条坂へ下りて軽く会釈《ゑしやく》すると別れたのだ。自分は数日|臥《ね》ついた。女のことを耳にするのは、何とも云へぬいやな感じで、その耳をふさいで了ひたかつた。ちやうど日を重ると共に近づいた初夏のぎらぎらした光線に、生きてゐる、それでもやつぱり生きてゐる、と胸一ばいに叫んだ時ほどの、生命力に充ちた思ひ出はない。爾来、自分は色んな困難にぶつかり、それが自分を圧倒して了ひさうになる毎に、あの時の声色を呼び起すのにつとめたものだ。もつとも、あの折のやうに、瑞々《みづみづ》しい感覚はどう手さぐりしても掴めなかつたが。自分は何を書きだしたのだらう。こんなことを書いてゐては際限がない。さうだ、きつと、生きてゐる、それでもやつぱり生きてゐるとの叫びを文字にして、自分の鼓動を
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