今度は帰つて行くのよ。時々妾達は斯うして向き合つて夜の更けるのも忘れるんだが、爺やはこれが何よりも楽しみなのよ。」
 私は、空しく壁を眺めて、涙に似たものを湛へてゐた。(あゝ、あの絵もそんな遠い国に行つてしまつたのか、俺は何処まで独りであの凧を追はなければならないのだらう、あゝ、あの主人の眼が懐しい。)
「それでも兄さんは、仕事を探すと云つて出歩いてゐるんだが、おそらくA町あたりの| obscene house《ナンバー・ナイン》 あたりにもぐつてゐるに違ひない、と妾は思ふんだが……」
「さうだ、あの辺の小料理屋は悉くナンバー・ナインの類ひらしい、A町だ、昔の吾家のあたりだ。だが、青野はあの辺には居ない。」
 私は、漠然と青野の行衛を考へたり、握つてゐるメガホンを覗いて、どうしたならば自分の意図を源爺に通じることが出来るだらうかなどといふことに空しく思案を傾けてゐた。
「ぢや、東京かも知れないね。」
「何のために行くのかと訊かれても返答の仕様もないので僕は、吾家の者にこゝに来ることは云はないでゐるんだが、吾家では僕が悪い遊びにでも行くのかと疑つてゐる。」
「あんたと同じやうなことを兄さ
前へ 次へ
全44ページ中41ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング