い顔をぴつたりと馬の首側に吸ひつけて、振動に一微の抵抗も示さず、肢体をその背に沈めてゐるので、夕靄が低く垂れこめてゐる時刻の為もあつたらうが、眼前をよぎられても私は乗手の姿を認めることが出来なかつた。放たれた馬が気儘に狂奔してゐるとより他は見えなかつた。
 たゞ私は、真向きに馬に面した刹那々々に、鬣の蔭に異状な鋭さを放つて靄を突き射してゐる二つの眼球を視た。馬を見失つて、光る視線に射られた。
「馬乗りなんて頼まないで、冬ちやんが出たつて平気だね。」と私は、何よりもあの眼から圧迫を感じて、言葉を代へて感嘆した。
「それア。」
 彼女は当然のことのやうに聞き流した。――「だけどお父さん達は妾がこれの傍に寄つたこともないだらうと思つてゐるのよ。叱られたつて怖くもないんだが、妾何だかそれが面白くつてワザとかくれて、これと遊んでゐるのさ。競馬の前になると、いろんな奴が集つて大騒ぎで練習をするんだが、妾程うまくやれる奴は一人も居ないわ、それを妾は知らん振りをして遠くから眺めてゐるのが、何だか好きで――」
 私は一寸と反感も覚えたが、そんな事を云つてゐる冬子の様子に得意気らしいところも見えず、嘲笑の
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