るばかりであつたが(私は正当な乗手になつて前方を視詰めてゐるわけにも行かなかつた、羞み笑ひを浮べる程の余裕もない、と云つて余り悸々《びく/\》するのも自尊心に関した。私は主に蹄の音に耳を傾けてゐた。)背後の冬子が如何に爽快に己れの五体を自由な鞭に変へて、毛程の邪魔もなく私の身を軽々とその翼に抱き、如何に見事な騎手の役目を果してゐるかといふことが、安んじて窺はれた。安心がなかつたら、あのやうに一散に駈る馬の背に一時たりとも私が乗つてゐられる筈はない。
冬子は汽笛のやうに唇を鳴らした。
「こわくはないだらう!」
「あゝ。」と私は点頭いた。
「さうだ、もつと体を前にのめらせて! 帆になつては駄目よ。……馬場まで行くのよ。」
「大丈夫かい? 日が暮れやしないのか。」と私は、声色だけは威厳を含めて呟いた。
「普段はもつと遅く出掛けるのよ。夕御飯の仕度が出来た頃に、一寸と妾は紛らせて。」
冬子が知らない頃に凧上げの場所だつた盆地が、その頃は競馬場に変つてゐた。馬場に来ると大概私は、自分から降りて見物者になるのが例だつた。
冬子を乗せた彼女は、裸馬のやうに自らスタートを切つた。冬子は、小さな白
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