ら裾一杯に染め出した緋縮緬の長襦袢が覗かれた。
「誰が、斯んなことをしたんだらう。」
 さう思つて傍らの衣桁に気づくと、其処には二通りばかりの夏物の衣裳が、長襦袢やら肌着などもそろつて今にも用に立てるばかりの格構で掛け並べてあつた。人形の両脇には一対の行灯が備へられてゐるので、試みに中を覗いて見ると、たしかに灯を灯した模様である。床几も出てゐる。煙草盆には巻煙草の喫殻が幾本ともなく突きさゝつてゐる。人形の脚の床には羽根蒲団やらクシヨンやらが散乱してゐて、誰かゞ寝転んでゐた形成だつた。
 雪江が、何とも可怪《おかし》な心地でその辺の様子を眺めてゐると、階下に人の足音が聞えた。――あんな相談が一決して、凄ぢい役者連が衣裳験べにやつて来たのかな! よし、口でばかり強さうなことを云つてゐながら凡そ臆病な三谷を悸かしてやらう――左う考へて雪江は、反対側に在る長持を飛び越へると隅に立て掛けてある屏風の箱の蔭に身を隠して息を殺してゐた。
 足音は、静かに梯子段を昇つて来るのだが余程注意深く忍んでゐるらしく――猫のやうで窺ひ憎い程だつた。途中まで来て、慌てゝ引返すと入口の扉を閉め直して来たらしく、今度は手燭に火を容れて、梯子段を昇り切ると、ふつと吹き消してゐた。そして、吻つとしたらしい太い吐息を衝いてゐるのを、雪江が物蔭から秘かに窺ふと、それは、さつき迄死んだやうに眠つてゐた筈の滝尾であつた。
「琴路殿!」
 滝尾は、そんな風に人形の名前を呼んだ。何を独りでふざけてゐるのかしら? と思つて雪江は眼を視張つて注意しつゞけると、ふざけてゐるどころか滝尾の様子は息苦しさうにさへ見へる程亢奮の眼を輝やかせて、微かに五体を震はせながら人形の傍らへ近寄つて行くのであつた。いつも、寝呆け眼で薄ぼんやりとしてゐる、成程あれは神経衰弱症に違ひない――と雪江は気の毒に思つてゐた滝尾、今眺めると恰で別人のやうに生々として、奇妙な、おそらく芝居じみた陶酔の風情にひよろ/\として、さうかと思と急に悩まし気に顔を歪めて、
「おゝ会ひたかつた――夜になるのが待ち切れずに、そつと忍んで来てしまつた。やがて誰かゞやつて来ぬうちに、暫しの逢瀬を貪りたい。」
 芝居の科白の通りな音声で、そんなことを唸つたかと思ふと、身を翻して人形に飛びかゝつた。
 人形と一処に羽根蒲団の上に滝尾は倒れると、何とも名状し難い不気味な唸りを発してゐるだけだつた。
 雪江は、いきなり、
「ワー!」
 と叫んで、悸かしてやつたら何んなに面白いだらうと思つて、思はず身構えたが、三谷達と違つて常日頃あんなに生真面目な人なんだから――と気づいて、やつと我慢した。そして、それ以上の奇怪な行動を見るに忍びなかつたので、眼を伏せて息を殺し通した。
 毎晩斯んな処に来て、明方までも人形に戯れてゐるのか! と雪江は思つた。それにしても奇怪な人だ。神話時代にはピグマリオンといふ人物がある、またホフマン物語の中にも人形に恋する博士の話がある、乃至は左甚五郎の「京人形」の噺などが伝はつてゐるが、そんな、無生物に切実な肉感を覚ゆるピグマリオニストなんて称ふ変質者はおそらく伝説か、荒唐無稽の芝居の中の人物のみと限られてゐるのかとばかり思つてゐたのに、斯んな眼の先にも、ちやんと、あの通り存在するなんて、何とまあ見るも気の毒な光景だらうか! ――左う思ふと雪江は、気の毒さなんて通り越して、その不気味と云ふより寧ろ途方もない滑稽感に駆られて居たゝまれないやうな気がした。
 雨は急に勢ひを増して、窓の外は水煙りで濛々としてゐた。その間に――と思つて、雪江は物蔭を伝つて息を殺したまゝ逃げ出して来た。

     三

 三谷は壁に両脚を突つ立つて、恰で逆立ちをしてゐる見たいな格構で、脚の先を眺めながら――いよ/\気分がくさつて来たぞ! とか、蔵の地下室の穴蔵から誰か「葡萄酒」を盗み出して来ないか、
「酒でも飲まなくてはやりきれねえ!」
 などゝ喚いたり、突拍子もなく大きな声ではやり歌を唸つたりしてゐた。
「三谷になんてにも、気分が何うなんて云ふ現象が起るとは、世にも不思議なことだな――三谷、行つて来いよ、穴倉へ!」
 双肌を抜いで大の字なりに転がつてゐる加茂が煽動した。
「普段でも俺は彼処には到底独りぢや薄気味悪くつて入れないんだ、だつて昼間だつて真つ暗闇で、大層な龕灯を点けて行くなんて、俺は思つたゞけでもゾーツとする、彼処の風と来たら何とも云ひやうもなく冷々としてゐるからな。」
 葡萄酒といふほどのわけでもなかつたのであるが、田舎出来の酒やら果物が貯蔵してある穴蔵があつて――屡々彼等は其処へ忍び込んで、此処の馬飼ひの年寄が造つた青葡萄の搾り液を持ち出して来て、これは何世紀の葡萄酒だとか、飲める酒だとか――口先ばかりで酒飲み見たいなことを
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