夜の奇蹟
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)椽端《えんがわ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一番|年長《としかさ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あゝ[#「あゝ」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)さう/\
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     一

 海辺の連中は雨が降ると皆な池部の家に集まるのが慣ひだつた。暑中休暇の学生達が主だつた。麻雀に熱中してゐる一組があつた。窓枠に腰を掛けてマンドリンを弄んでゐるのは一番|年長《としかさ》の池部だつた。池部は学校を出てもう三年も経つたが、この旧家の長男で別段働く必要もなかつたので、天文学に関する書籍などを漁りながら静かな、だが殊の他憂鬱の日を送つてゐる境涯だつた。
「斯んなに雨が続くんなら俺はもう東京へ帰つてしまはうかな?」
 部屋の隅の方に寝転んでゐた若者が、突然大きな声で欠伸と一処に唸つた。その男は、斯うして家に転がつてゐるのにも水着を着たまゝで、今迄、物凄い鼾声を挙げてぐつすりと寝てゐたのだつたが――。
「帰るんなら、たつた今帰ると好いわ、隆ちやん見たいな野蛮人がゐなくなると清々と好ゝわよ。」
 雪江は椽端《えんがわ》の茶卓子《テイー、テーブル》で切りにトランプの独り占ひを試みてゐたが、札を並べながら済したまゝ、そんな独り言を云つた若者に一矢を浴せた。
「ちえツ、酷えことを云つてら――俺が野蛮人だつたら……さうだな、幾分まあ紳士らしいのはこのうちで池部さん一人位のものぢやないかしら?」
「違ふわよ――彰さん見たいなんだつてゐるんだから……」
「さう/\!」
 と若者は、さも/\自分が迂闊であつたといふことを大業にして、笑ひながら、
「滝尾さんといふ聖人が居たな。あんまりおとなしいんで、つい存在の程を忘れてしまつたわい。」
「雪江……」
 と、不図池部が妹の名を呼んだ。「滝尾は、雨の日だけ海岸散歩へ行くつて云つてゐたけれど、ほんとうか?」
「嘘よ――。相変らず離室《はなれ》で寝てゐるわよ。皆なが来てゐるから一処に遊びませんかツて、妾《わたし》が先刻お迎へに行つたらばね――」
 と云ひかけて雪江は、
「ちえツ、これあ、また駄目だ!」
 さう云つて持札を棄てると兄の方へ向きを変へた。
「いくら起しても、ちつとも目を醒さないのよ――でもね、隆ちやん見たいに寝像の悪い人とは違つて……」
「何だい、また俺か――面白くもない。」
「……ちやんと行儀好く、上向《あおむ》けになつて、すや/\と眠つてゐるんだけれど、妾、その顔を暫く見てゐたら何となく気の毒になつてしまつて、そうツと出て来ちやつたけれど、――皆なの余り真ツ黒な顔ばかり見つけてゐるせいかしら、酷く、滝尾さんの顔色が蒼く見へたわ、それに、とても頬なんてこけたぢやないの!」
「徹夜の祟りなんだらう――勉強も好い加減にすると好いんだがな!」
 池部は不安さうに呟いた。滝尾は池部と同じ年に文科を出た池部の一番親しい友達だつた。神経衰弱の療養のために春頃から池部の家に滞在してゐたが、池部の土蔵に封建時代の様々な記録が残つてゐるといふことを聞くと彼は雀踊《こをど》りして、以来それらの書類の渉漁に寧日ない有様だつた。
「一体、ものに熱中しはじめるとあいつと来たら途方もない耽溺家になつてしまつて自分ながら自分を何う制御して好いか解らなくなつてしまふといふモノマニアなんで……」
「その熱情の百分ノ一でもが俺なんてに恵まれてゐたら宜《よ》かつたらうがな。池部さん、僕は、これは秘密なんだけれど、今年もまた落第しちやつたんですよ。」
「馬鹿ね。」
 と雪江が笑つた。「秘密を、そんな大きな声で喋舌つても好いの?」
「あツハツハ……えゝ、もう破れかぶれだ――天気になれ、天気になれ、雪江さんの脚は綺麗だな! あの曲線が、ずうツと、斯う、胴仲に続いてゐて――あゝ[#「あゝ」に傍点]なつて、斯うなつてゐると……」
「三谷の馬鹿!」
 雪江は、靴下も穿いてゐなかつた脚をスカートの中に秘《かく》さうとしたりしながら、
「あんたそんなことばつかし考へてゐるから落第なんてしてしまふのよ。海へ行つてゐても、あんたの眼つきと来たら、とても浅間しいわよ、百合さんや、照ちやん達も――三谷が一番嫌ひだつて云つてゐたわよ。」
 などゝ毛嫌ひらしい言葉を浴せながらも別段不快といふわけでもなく、椅子の上に膝を立て、両腕で抱いてゐた。
「何うせさうでせうよ――だ。」
 三谷はわざとふざけるやうに太々しく唸つたりしてゐた。「僕なんざ、たゞ正直なだけなのさ。誰だつて、女の姿を眺めて、さう云ふ空想に走らない人間なんて、無いだらう――滝尾さんだつて、おそらくは――だ。」
「まあ、失
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