は無かつたのであるが、秘かに情人の姿を眺めることを好んだ。
 橋を渡つて、向方の稲むらの間に達しても動いてゆく久良のかたちは、どこまでもはつきりとしてゐた。久良は、戯れに稲むらの間を事更にジクザクと縫つて、このまま別れてゆくのが名残り惜しいといふ風に、いつまでも振り返つてこくりこくりと首を動かせたり、慌てて稲むらの蔭に隠れたりした。それは扉の内の恋人への会釈に相違なかつたから、俺は柿の木の幹にもたれてぼんやりと見送るだけの役目を果してゐた。
「済まないね。」
 やはり節穴から覗いてゐた太吉が、太い声をかけた。

     三

 久良がつくつて来た二つの草鞋の一足は大き過ぎて芭蕉のやうであり、一足は指が悉く喰み出して役に立たなかつた。久良はそれらの製作に疲れて、囲炉裡のふちに伸びた。太吉は、色眼鏡の代りに、片方の眼だけを蓋する四角の布に糸をつけて耳にかけてゐた。
 久良は、太吉の自然の一つの眼を惚れ惚れと見あげて、
「これは優しいけれど……」
 と云つた。だが、その目覆ひの直ぐ下の有様を想ふと、気味悪くて近づけぬと神経性の痙攣を全身に波立せた。太吉は、優しい眼の方の横顔を久良の側にして
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