ものが嫌ひなんだ。照子なんてには係りはないんだ。」――「だから俺は試験の時節になると屹度、ものを書きたくなつたり、恋を空想したりするんだ。」
 彼は、そんなことを呟いて、何か意味あり気にひとりで点頭いた。
 彼は、自分の結婚を空想した。妻を得た或る日の自分とその見知らぬ妻を描いて、二人に会話を与へた。彼はペンを取つてノートブツクに次のやうなことを書いた。
 ――その年に彼も結婚した。
「あなたは妾と結婚する前に恋をしたことがあるでせう。」妻はよく斯んなことを云つて彼を困らせた。
「ない/\。ほんたうに、決して――」彼は、心から妻を愛してゐたから、無気になつて答へるばかりだつた。
「嘘だ/\。」と云つて妻は泣いた。そんな事も聞いた。あんな事も聞いた。と妻は古い手紙などを持ち出して、又泣いた。
 彼が或る女と家を逃げ出したこと、雛妓《おしやく》に惚れて親爺から勘当されたこと、などを妻は知つてゐた。
 が実際、彼はこの妻程愛した者は一人もなかつたから、「嘘ぢやない」と懸命になつて云へば云ふ程、妻は反対に焦れた。さうなると彼は癪に障つて、妻以上に深く愛した恋人を持たなかつた過去を寂しく思ひ、後
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