掻いてゐた。
「早く木村程上達して、お百合さんの手を握ることを俺は切望してゐるんだぞ。」加藤は天井に眼を向けてそんなことをうなつた。
「俺も顔を剃らうや。」と木村も云つた。
「俺、今日こそ思ひ切つてお百合さんの傍に滑り込むよ、突き当つて、御免なさい、といんぎんに詫びるんだ、斯ういふ具合に。」
 加藤は立ちあがつて、おどけた構えをした。
「おツと危いツ、で、斯う俺が抱き止めてしまふんだよ、斯ういふ風にさ――百合子の君を、どうだ、これには木村も敵ふまい。」
「うむ。」と木村は生真面目に点頭いてゐた。そして微かに赤くなつた。
「あゝ、あの髪の毛に一寸でも好いから触つて見たいな、ブルブルツ!」と宮部は仰山な身震ひをした。
「抱き止める拍子に転んでしまつたら、どうだらう。」加藤は調子づいて叫んだ。「何しろ脚には車が付いてゐるんだからな。……危い/\で、しつかりとつかまるぜ。」
「一寸今此処で、その要領を練習して見ようかね、加藤は家だと熱を吹いてゐるが、いざとなれば、口も利けないんだからなア、加藤がやらなければ僕がやるよ/\。」宮部も軽く亢奮した。
「何しろ面白い遊戯が訪れて来たものだ。」
 加藤は、妙に浮んでそんなことを呟きながらどつかりと胡坐を掻いて、庭に眼を反らせた。――黙つて聞き流してゐる風を装うてゐたが純吉の心も、異様に明るく躍動してゐた。
「塚田も此頃は画はそつちのけだね、彼奴もいくらか百合子に怪しいんぢやないのか。」
「まさか、従兄姉同志ぢやないか。」
「従兄姉といふのは、油断がならないぜ。」
「さうかね。」
「さうとも/\。彼奴が怪しいとなると困つたね、強敵だね、何しろ同じ家に起伏してゐるんだからな。」
「止せ/\、不幸な空想に走ることは徒らに己れを傷けることだ。」
 木村と加藤は、冗談とも真面目ともなく、そんな話を取り交してゐた。
 皆な、丹念に顔を剃つた。宮部はタルクパウダーを思ひきり沢山手の平にあけて、ごしごしと磨り込んだ。加藤は、鏡の前で、様々に顔を歪めたり延したりして、独りで悦に入つてゐた。木村が、トランプをやらないかと純吉を誘つたが、彼は、厭だといつた。
「岡村は、ほんとに行かない気か?」
 夕飯の時宮部が、そんな風に訊ねた。
「勉強だ/\。」と純吉は、わざと笑ひながら云つた。

[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]

 塚田の画室の窓が、それは海辺の一軒立だつたから、遠くからでも、灯《あかり》が点くと松林の間から眺められた。山の夕陽《ゆふやけ》は、すつかり消えて、松にはさまれた海浜の一筋道が白ツぽく横たはつてゐた。彼等は、各々スケートの包みを小脇に抱へて、勇みたつて、白い道を踏んで行つた。
「俺もひとつ今日こそは、大いに滑走するぞ、笑ふなよ。」
 さう云つたのは純吉だつた。彼の胸には無性に花やかな渦《うづまき》が、わけもなく賑やかに波立つてゐた。――(決心したのだ、決してもう愚図/\しないんだ、俺だつて/\。)
「誰が笑ふものか。」先を急いでゐるためか普段なら何とか冷かさずには居られない宮部は、きつぱりと答へた。純吉には、その答へが莫迦に嬉しく、親し味深く響いた。
「加藤は厭に黙つてゐるね。」純吉は、一寸調子づいてそんなことを云つた。
「俺は、未だお百合さんの脚の格構を考へてゐるんだよ。さう思つてゐるだけで、何となく胸が涼しくなるんだ。――お百合さんの滑走の姿を空想してゐるんだ、二つの脚が快活に左右に滑り出て、或は高く、或は……」
「そんなことは止して呉れよ、俺は何だか妙に悲しくなつて来る。」さう横から口を出したのは木村だつた。
「今日は何時もより少し遅かつたね。」
「急がうよ、急がうよ。」
 そんなことを云ひ合ひながら足を早めてゐるうちに、間もなく塚田の赤い窓が眼近くなつて来た。彼等は、さうなると妙に黙つてしまつて、足音だけが厭に勢急にバサバサと砂地を整つて踏んでゐた。
「おいツ!」
 先頭に立つてゐた加藤が突然、声を殺して力を込めて囁いた。「聞えるぜ/\、俺達の行き方が遅いもので、お百合さんはひとりで、ひとりだ/\! ひとりで始めたんだ。あゝ、好い音だなア。」
 加藤の言葉と同時に彼等は、一勢に踏み止まつた。そして耳をそばだてた。微かに、転々《ごろ/\》と板の間に鳴る車の音が、微妙な旋律となつて純吉の耳にも伝つた。
「沁々と聞かうぜ、斯んな機会は何時あるか解らないからね。」木村もさう云つて、凝と腕を組んだ。
「おツと危いツ! 今一寸片方の脚が乱れたぞ、しつかり/\。」
「宮部、真面目になれ。」と加藤は無気になつて呟いた。たしかに今踏み脱したやうな音、純吉も聞いて、何となくゾツとしたところだつた。――その後は、また絶間なくスルスルと鮮かな音が続いてゐた。
「人魚が砂の上を匐ふやうな音だね。」とまた宮部は半
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