明るく・暗く
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)陽《ひかり》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ごろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

 天井の隅に、小さい四角な陽《ひかり》がひとつ、炎《も》ゆるやうにキラキラと光つてゐた。湯槽《ゆぶね》の上の明りとりから射し込んだ陽が、反対の壁にかゝつてゐる鏡に当つて、其処に反映してゐるのだつた。
 純吉は、先程《さつき》から湯槽に仰向けに浸つて、悠々と胸を拡く延しながら、ぼんやりとその小さな陽を眺めてゐた。――快い朝だ、と彼は沁々と思つた。……帰省して以来間もなく一ト月にもなつたが、その間、何といふ懶い日ばかりが続いたことだらう。
 秘かに想ひを寄せてゐた照子は、勝ち誇つたやうに嫁《かたづ》いてしまつたし――加《おま》けに高を括つてゐた学校は落第してしまつたし、……。
 そんなことを思ふと口先だけでは勢ひの好い虚勢ばかりを張つてゐるものゝ内心は至つて臆病な彼は、折角の若い日も滅茶苦茶になつてしまつた気がして、暗然とした。これが動機となつて意固地な運命は何処まで暗い行手を拡げることだらう……転々《ごろ/\》と、底の知れぬ程深い谷底へ、足場もなく転げ落ちて行く一個のごろた[#「ごろた」に傍点]石に、われと自らを例へずには居られなかつたのだ。
 純吉は、湯槽の中で思ふ様四肢を延して、朝の陽を仰いだ。前の晩、卑しい妄想に病《なや》まされて到々明方までまんじりともしなかつた。夜が明けて救はれた気がした。湯をわかすことを命じてから暫くうと/\した。厭な夢ばかり見続けた。起された時は、夏の朝らしい爽々《すが/\》しい陽が庭に一杯満ち溢れてゐた。彼は夢中で湯槽へ飛び込んで、吻《ほ》ツと胸を撫で降した気になつたのだ。
 純吉は、大きな声で女中を呼んだ。
「煙草を喫《す》ふんだから、一本つけて来て呉れ。」
 純吉は、湯の中に仰向けの儘煙草を銜《くは》えて、悠々と喫《ふか》し始めた。静かな朝だつた。煙りはゆらゆらと立ち昇つて、天井に延びた。
「おい/\。」廊下から宮部が騒々しく純吉を呼んだ。「何時まで湯に浸つてゐるんだい、稀に朝起きをしたと思へば! 居眠りでもしてゐるんぢやないのか?」
「あゝ煩いなア!」純吉は、さう呟くとさもさも迷惑さうに顔を顰めた。「もう浜から帰つて来たのか? チヨツ!」
「未だ寒くつて海へは入れなかつたよ。加藤と木村がこれからスケートへ行かうツてさ。」
「厭だ/\。」と純吉は首を振つた。(スケートといふのはローラー・スケートのことである。それが流行した頃だつた。)
「厭もないもんだ。昨夜はどうだい、あんなに面白がりやがつた癖に……」
 そこに加藤も出て来て「昨夜は純公の評判が一等素晴しかつたなア。お百合さんは貴様に確かに秋波を送つたぜ、なア宮部?」
「昼間になると変に気分家面なんてしてゐる癖に、塚田へ行くとイヽ気なものだ。」
 塚田の画室をスケート場にしてゐたのだ。百合子は塚田の従妹である。
「ほんたうか?」純吉は、からかはれたことを打忘れて仰山に湯槽から飛びあがつた。
「だが駄目だよ、これからは海が始まるんだからな、泳ぎなら俺様が大将だからね。」と加藤はふざけて胸を張り出した。「百合子さんは泳ぎの出来ない奴は嫌ひだつて云つたぜ、どうだい参つたらう、だが、それにしても彼の君が浜辺に現れたらさぞさぞ……」
「もう止して呉れ。」
 純吉は、もう不気嫌になつてゐた。彼は、タヲルにくるまつて日当りの好い縁側に出た。加藤は押入からスケートの車を取り出して回転の具合を験べたり、油を注したりしてゐた。
 木村は、純吉の机の前で薄ツぺらな雑誌を切《しき》りに読んでゐたが、純吉の姿を見ると、
「馬鹿だな、斯んな下らねえことを書いてゐやアがる。」と笑つた。純吉は、ハツとして其方を見ると、思つた通りそれは自分が同人の一人になつてゐる文芸同人雑誌だつた。湯に入つてゐるうちに着いたものと見える。純吉は、非常に慌てゝ木村の手から雑誌を奪ひ取ると、赤くなつて次の間へ駆け込んだ。そして胸を轟かせて頁を繰つた。それには彼が、冬のうちに書いた二度目の短篇小説が載つてゐた。空想で書いた小説だつた。(あの空想が到々本物になつてしまつた。)と彼は呟いだ。そして彼は一寸意味あり気に眼を閉ぢたりした。(運命を出し抜いてやらうと思つたら、まんまと返り打ちにされたか!)
「文科の癖に何だい、その拙さは……」など、隣りから木村が笑つた。
「純公が小説を書いたのか?」加藤の生真面目な声も聞えた。「女のことか
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