おきふし》するのが若しかつた。父親の顔を見るのも苦々しかつた。母親と言葉を交すのも退儀だつた。幸ひ海辺に近いこの家が空いてゐたので、学年試験が終つて帰省すると間もなく独りで此方へ移つたのだ。父の姿に接しても、母の顔を見ても、憂鬱と軽蔑の念が交々起つて堪らなかつた。
門の石段のあたりから、木村達が帰つて来る威勢の好い靴の昔に高笑ひが交つて聞えた。
「あゝ、腹が減つたなア。」
「やつぱり木村のモーシヨンはプロフエツシヨナルに出来あがつてゐやアがる。」
「この分ぢや明日あたりから泳げるぜ。」
「寒い思ひをして泳いだつて見物人が居なくつちや、馬鹿/\しいな!」
「百合さん/\。」
「加藤は酷い不良だな、ハツハツハ……」
純吉は、妙に慌てゝ窓側を離れると、机の抽出から剃刀を取り出して、柱に懸つてゐる革砥に巧みに合せた。椽側から射し込む光りが、剃刀の刃に映つてキラキラと反転した。木村達は庭を回つて、縁側に腰を降した。グローブやミツトを隅の方に投げ棄てゝ砂を払つて、加藤は座敷の真中に寝転んだ。(あゝ、早く夜になれば好いな。)
「岡村は今起きたところか?」
「今日から僕は勉強を始めるんだよ。」
純吉は、机の上に鏡を立てゝ、シヤボンの渦をたてゝゐた。
「此奴鬚もない癖に、厭に顔ばかり剃りやアがるね。」と木村が椽側からひやかした。
「怪しいぞ/\。」加藤は仰山に叫んで、純吉の鏡を覗き込んだ。「俺も剃るぞ。塚田へ行くには精々キレイになつて……」
「俺はもうスケートは御免だ。」純吉は、さう云ひながら快い剃刀の音をたてゝゐた。
「行きたい時には、わざとあんなに空とぼけるのが岡村の癖だよ。」と宮部が云つた。
「岡村は学校を落第したもので、少し此頃変だね、意久地もない。」
「ワセダあたりで落つこちるなんて普通の出来事ぢやないなア、加けに純公は文科ぢやないか、何か恋愛事件でもあつたのかな。」
「何だい、貴様だつて落第ぢやないか。」傍から木村が加藤にからかつた。
「俺は官立学校だよ。」
加藤は済してゐた。純吉を除いて彼等は悉く官立学校の法科だか工科だかの学生だつた。
皆な休みになつて帰つて来たが、純吾が此処の家に独りで暮してゐるもので、いつの間にか彼等も此処に寝泊りするやうになつてしまつた。
もともと純吉は、楽をする目的で私立大学の文科を選んだのだ。学期試験になると、それでも臆病な彼は、大して楽な気持も味へず、前の晩毎には、可なり亢奮もし、相当に教科書にも眼を曝し、課目も全部受験したから、何の私立大学の文科位ひのつもりで、万一も気遣はず、成績発表の日には大手を振つて登校した。貼出紙のうちに、岡村純吉の名前は消えてゐた。勿論、恋愛事件などのあつたわけではない。小胆な彼の喉には、その刹那から異様に重い玉がつかへて、今だにそれは消化しなかつた。
E――を発見したのはその間もなく後のことであつた。この二つのドス黒い玉が重なつて、彼の胸を塞らせてゐた。
落第のことでも純吉は、大いに狼狽して、一寸世を味気なく思つたりしながら愴惶として、先づ祖母の許へ走つた。――そして、それは両親に秘して呉れ、その代りこの先は……などゝホロリとして頼んだりした。(一年位ひのことは、二三年のうちには何とか親達の前にはごまかして済むだらう、たつた一年ばかり。祖母にも云はなければよかつた、とんだ慌て方をしたことだつた……)
加藤と純吉は、時々斯んな会話を取り換した。
「落第が何だい。」純吉は胸を張り出してそんな風に云ふのが常だつた、「学問なんてやらうとさへ思へば、どんなボンクラな奴だつて一等になれるんだ。(彼はそんなことを夢にも思つたことはない。)試験などになつてビクビクするやうな男は、死んだ方が増だらう、俺は二回受けたきりで実は止めちやつたんだよ、あの気分が堪らないんだ、青ざめた学生の面を見ると浅猿《あさま》しくて仕様がないだア。」
「さうとも/\、試験なんぞに囚はれてムザ/\と若い日をつぶしてゐられるものか、俺は二三年学生時代を延して、その代りいざ社会に出た日には――」
加藤の言葉は誇張ではなかつた。確かな自信に充ちてゐた。彼は、純吉と違つて中学の頃から秀才だつた。
「岡村、早く剃つてしまつて、俺にも一寸剃刀を借して呉れや。」純吉の背後《うしろ》から、加藤に続いて宮部も声を掛けた。
「そして、俺のは、木村、お前が剃つて呉れないか、ボールなんてやつたもので手が震えて仕様がねえや。」と加藤は不平さうに呟いた。
「加藤は反つて髭つ面の方が様子がいゝぜ、ねえ宮部?」木村は苦笑を含みながら、まじまじと加藤の顔を眺めた。
「加藤は、荒尾譲介を気取つてゐる古めかしい男なんだからなア、スケートなんておこがましいぜ。」そんなことを言ひながら宮部は、もうタオルを胸に懸けて、純吉の後ろに胡坐を
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