呟きながらそつと立ち上つた。だが、足の重いスケートを感ずると「とても駄目だ。」といふ気がした。――(自転車を習ふ時のやうな身構へで好さゝうだが、ハンドルが無いには閉口だ。)――(静かに/\。)――(脚ばかりに気を取られないで。)――(まつすぐに眼を向けて、傍見せずに。)――(重い脚を、軽く意識せよ。)――(それにしても斯んな重いものをつけて、あんなに巧みに踊り回れる彼奴等は尊敬に価するぞ!)――(何ツ! くそツ! 俺も男だ。)――(死んだつて関ふものか、滅茶苦茶に飛び出してやらうか!)――(それで失敗《しくじ》るんだよ、落着け/\!)――(厭にまた、この車は回りが好すぎるやうだ。)――(石に噛りついても上達して見せるぞ。たかゞスケート位ひ!)――(叱ツ、他念なく/\、脚の踏み所、力の入れ具合、細かく呼吸して……)
 純吉は、それらの言葉でわれと自らを励ませながら、注意深く壁に添うて一歩一歩静かに、靴を挙げては降ろした。危険に気付くと、直ぐに窓枠に噛りついた。――窓の外には月の光が明方のやうに明るく輝いてゐた。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 純吉は、昼頃眼を醒した。雨脚が他人のものゝやうに堅苦しく、痛かつた。――(やつぱり俺は独りに限る。もう今日からは、何と云つても出かけないぞ。……あの苦しみは地獄の有様だ!)
 彼は、飯を食べる気力もなく、ぼんやりと窓に腰を掛けた。――(それにしても癪に触ることだなア、あんなこと位ひが出来ないで斯んなに気が滅入つたり、恥を感じたり――。よしツ、ひとつ彼等に内緒で一週間ばかり単独で練習してやらうかな。そして眼醒しい上達をして、再び現れて彼奴等の度胆を抜いてやるのも痛快だな。)
 さうも思つたが、あの醜いいざり[#「いざり」に傍点]のやうな滑り方をする姿を想像すると、彼は忽ち慄然として堪らない冷汗を覚えた。
(止せ/\。俺には俺の天分があるんだ。同じく渚に転がつてゐる小石であらうとも、俺には角があるんだ、矢鱈に転々して堪るものか。)――口惜し紛れにそんなことも考へたが少しも力が入らなかつた。
(……多くの怠惰学生は、その怠惰さ加減に比例して、愉快なる大胆さを備へてゐる、そして朗らかな自信を把持してゐる、若少し誇張して云ふならば、彼等は快活な夢と、微妙な涙と、花やかに巧みなる感傷と、繊細な豪胆さとを夫々融和して胸の底に秘蔵してゐる。若しも彼等の一人が、その中何れか一つの性質を忘れて生れたならば、彼の存在は何と惨めで、如何に醜く、何と彼は不幸な青年であらうか!)
「あゝツ!」
 純吉は、思はず太い溜息を衝くと同時に、そんな愚にもつかない感想を振り棄てようとして、乱雑に首を振りまはした。
 窓辺の柘榴の蕾は、大方開かうとしてゐた。緑の深い細い葉と、紅色の蕾の球とが、窓を覆ふやうに拡がつて、それらの隙間から覗かれる晴れた海と空の蒼い平板に鏤められたやうに浮きあがつて見えた。まどろみかけた純吉の鈍い眼に、そんな風に映つたのだ。
 純吉は、窓枠に腰を降した儘、柘榴の花を沁々と眺めたり、小さく動かない船の見ゆる沖の方をぼんやりと視詰めたりした。――だが彼の心は、未だたつた今の愚考から離れてゐなかつた。
(あゝ、俺は何といふ不幸な怠惰学生なんだらう――。怠惰にかけては、誰にも敗《ひけ》はとらなかつた、が自分は怠惰以外の、彼等の徳とする凡ての心を持ち合さなかつた。白《ブランク》ならば未だしも救はれる、にも関はらず自分の胸の底には彼等のそれと反対の凡てを鬱積させてゐる――小胆の癖に大胆を装うてゐる、自信は毛程も持ち合せない、役に立たないカラ元気ばかりを煽りたてゝゐるんだ――卑しい妄想と、愚かな感傷と、安価な利己心と、陰鬱な夢と、その癖いけ[#「いけ」に傍点]図々しい愚昧な策略とを持つてゐるんだ。……あゝツ!)
 そんな他合もない心を動かせてゐるうちに彼は、ふつと気持が白けたかと思ふと、わけもなくにやりとセヽラ笑つた。若しも其処に相手がゐたならば、その人はおそらく「馬鹿にするなツ」と憤慨するに相違ない。純吉は近頃独りの時そんな風な薄気味悪い笑ひを浮べるのが、何時の間にか自分でも気付いてゐない習慣になつてゐた。
(……彼女は、ボストンの郊外に、母親と二人で小さな果物店《フルーツパーラー》を経営してゐるさうだ。E――といふ混血児の小娘だ、混血児は軽蔑されるかな、そんな馬鹿な話はあるまいな、だが頓興にも程があるぢやないか、そのE――が、E――が、俺の妹だなんて、気味が悪いな、気味が悪いな!)
 突然に純吉は、そんなことを思ひ出した。(やつぱりあの[#「あの」に傍点]ことは気にかゝつてゐると見えるな、だがあんな不気味なことは思ふまい/\。)
 E――のことを或る偶然の機会で知つて以来、純吉は自家《うち》に起伏《
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