お爺さん/\、熱くつて仕様がねえよ、水を出して呉れ、水を出してお呉れよう――」
 湯殿では、そんな騒がしい声がしてゐた。間もなくガタン、ガタンと退屈気にタンクをあをる音が、のどかな朝の色に溶け込むやうに響いた。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 家に居る間は誰もが無遠慮に百合子を称揚したが、此処に来ると皆な堅くなつてゐた。男同志時々眼と眼とを見合せて、一寸微笑むだけで、各々取り済した円陣をつくつて「メリーゴーラウンド」を保つた。スケートの車の音が緩なリズムとなつて、大波のやうに部屋中に充ち溢れた。回転しながら落着いた態度で、ポケツトから手布《はんけち》を出して汗を拭く者もあれば、威勢よく上着を脱いで傍らの椅子に投げ棄てる者もあつた。百合子は薄いスカートをひら/\と翻しながら、「ゴー・ラウンド」の一隊に加つてゐた。――純吉は片隅の椅子に凭れて、燦然たる光景を羨し気に眺めてゐた。……あんなに美しい百合子は、一体どんな男と恋をするだらう! 彼はそんなことを考へて、体の竦む想ひをした。そして、一同がこれ程烏頂天になつて快活に跳ね廻つてゐる時に、そんなに卑しく因循な空想に耽つてゐる自身を顧て、風穴に吸ひ込まれて行くやうな不快な想ひに襲はれた。
「岡村さんどうなすつたの?」百合子はさう云ひながら円陣を滑り出て純吉の前に現れた。
「……」ウツと純吉の喉は詰つた。
「妾もう逆行が出来るわよ、演つて見ませうか?」
「転ぶといけませんよ。」そんなつもりではなかつたのだが彼は、つまらないといふ風な云ひ方をしてしまつた。そして横を向いた。
「あなたは出来て?」
「出来ますよ。」と彼は、思はず何の思慮もなく呟いだ。普通の滑り方だつて満足に出来ない彼だつた。
「ぢや教へてよ。」
 此奴俺をからかつてゐやがるんだな――純吉はさう思つた。純吉の滑り方は一種特別だつた。両脚を交互にスツスツと踏み出す当り前の滑り方が彼には如何しても出来なかつた。彼が試みると、左脚が棒の様に延びた儘で右脚は分廻しのやうに一方に反れて、それがたゞガクガクと跛足のやうに思はせ振りな動き方をするばかりだつた。球投げをする時ガマ口のやうにパクリと二つの手の平を開けておどおどと球の来るのを待ち構へてゐるやうな捕手が上達の見込のないと同じく、斯ういふ要領のスケートマンは如何程練習しても無駄だといふ話だつた。純吉がホールに現れると皆な、悪意のない軽蔑の眼で彼を見物したがるのだ。――止せば好いのに、彼は木村達に誘はれるとふら/\と伴いて来るのだつた。
「教へてもいゝけれど……」彼は涙が胸に溢れるやうな切なさを感じた。(もう明日からは何と云つても来るものか、畜生奴、馬鹿にしてゐやアがる! 手前達のやうな野蛮な人種とは違ふんだ。俺は瞑想的な詩人なんだ。斯んな馬鹿/\しい遊戯に心を奪はれるやうな安ツぽい男ぢやないんだ。)彼は唇を噛んでそんなことを胸のうちで呟いだ。
「そんな負け惜みを云はないで、もう少し熱心に練習しなさいよ。……ほら御覧なさい、あんなに不器用な加藤さんだつて、あんなに巧くなつたぢやありませんか。」
 百合子が指差した方を純吉が眺めると、加藤は両腕を翼のやうに延して、軽々と回転してゐた。選手《チヤンピオン》の木村は、左手を軽く腰のあたりに当てがつて口笛を吹きながら逆行してゐた。宮部は左右の脚を交互に入れ違ふ行き方で、純吉の前を通つた時「どうだ、巧いだらう、一処に伴いて来いよ。」と叫んだ。
「木村さん!」と百合子は叫んだ。「妾の手を執つて頂戴よ。」
 百合子は木村の後を追ひかけて行つた。純吉は、わけもなくほツとして、星が一杯輝いてゐる窓外の空を見あげた。
(斯んな時に、沁々とした孤独に浸らう、そして印象的な詩を作つてやらう。)
 純吉は、そんなことを思つて静かに眼を閉ぢたが、何の「詩的な霊感」も浮ばなかつた。驢馬の耳のやうに鈍重な神経ばかりが、執拗に嫉妬深く百合子の姿を追ひかけたり、光りのない未来の空漠が不安な雲となつて五体を覆ひ包んだりするばかりだつた。
 スケートの音が遠雷のやうに響いたり、また純吉の眼近く崇大なオーケストラのやうに渦巻いてゐた。純吉は、影のない夢見心地でぼんやりと眼を視開いてゐるばかりだつた。
「大さう六ヶ敷い顔をしてゐるな。」
 宮部は、純吉を浮きたゝせてゞもやるらしい心意《こころ》で、そんなことを口走つて彼の前をかすめ通つた。
「やれよ/\。」続けて加藤の声もした。
「俺ばかり百合子さんを教へてゐるんぢやテレるよ。」木村は、純吉の耳にそつと囁いで滑つて行つた。
「少し勢ひをつけると、片方の脚だけで一週出来さうだわ。」
 百合子は歌劇女優のやうに、わざとらしく脚を挙げて走つてゐた。
(俺だつて出来ないこともあるまい。)皆なの注目が反れた時、純吉はそんなに
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