と思つた。その時まで私は、東京で遇つた時の彼のことまでを忘れてゐたくらひだつたのだが、私は如何にも思ひがけない旧知にでも出遇つたやうな悦びを感じて、
「さあ、これから一処に行きませう。僕は毎朝この時間で、河のふちの仕事部屋へ通つてゐるんです。」
 などと奇妙にうき/\と元気づきながら、切符を買つたり、朝飯はこの頃はいつもこの汽車の弁当だとか、
「田舎には夜通し起きてゐるやうな、あんな家がないんで、はぢめのうちは途方に暮れたが……」
 などと吾ながら何時にも覚えたこともない饒舌振りだつた。私はいつもいんねんもない人に対しては恬淡になれぬたちなのにも関はらず、尾羽打ち枯した彼の姿を見れば見るほど愛惜を覚ゆるのであつた。
「ピーツと出るかとおもふと、直ぐにこの次で降りるんですよ。カモノミヤといふ駅――来る時には気づきもしなかつたでせう。だから余つ程手つとり早くしないと、飯を喰ふ間もありませんぜ。ところが僕はすつかり慣れてしまつてね、恰度汽車が止る間際にぴつたりと弁当を仕舞ひ終へるといふ芸当が、それはもうあざやかなもので……」
 そんなことを喋つてゐるうちに、飯を喰ふ間もなく次の駅だつた。

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