を怕れて来ないといふばかりでなく、僕は間もなく田舎へ転地しなければならないんだよ。」
 私はついほんとうのことを口にした。
「田舎といふと……?」
「小田原――」
 私は下向きながら答へた。彼は是非とも宛名を知らせて呉れと諾かなかつた。それは故郷とは云ふものゝ、めあての家も未だあたりがなかつたので、私は駅前の本屋を気付にして、彼の手帳に名前を誌した。
 二三日経つて私は大崎のアパートを引きあげた。
 私は町端れの家から、一丁場を汽車に乗つて河のほとりの農家の離れへ通ひ詰めてゐたが、空しい日ばかりがつゞいてゐた。――あたりはもう蛍の飛び交ふ夏景色であつた。私は、自分が小説作家であるといふ考へを放擲しなければならぬと考へた。私は、あれらの惨めな冬から春へかけて、小説を書かうとして苦しむがために二重に制作を為し損つてゐた自分の姿を幻灯のやうに思ひ出すだけであつた。私は二三冊の書物と、手提ランプを携へて毎朝早く河のほとりへ通ひ詰めて、きまり好く夕暮時に町へ戻つてゐたが、農家の厩屋で馬を眺めるだけで一日を終ることが珍らしくなかつた。
「何うせ何も出来ないからには、せめて時間だけを正確にして、健康
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