なると屹度お宅の噂が人気をさらつてしまふ……なにしろ評判の器良好しで……」
僕は、そんな会話に耳を傾けてゐるうちに、何とも名状し難い不安な心地に襲はれて来て、もう一刻も其処に凝つとしてゐられなくなり、物をも云はずに慌てゝ務先へ引き返したことがある。
真夏の蒸暑い真昼時であつた。この朝は幾分遅れて出勤したのであつたが、例に依つてA子の部屋を視守つてゐたが(寝台《ベツド》の様子で見ると、一刻前に起き出て、取り散らかつたまゝの様子だつたから、直ぐに現はれるであらう――何時も彼女は自分で寝具を取り片づけるのが常である故。)何時迄経つても現はれないのである。鳥が飛び出した後の籠の中のやうに、取り乱れたまゝの部屋であつた。主の居ない部屋を見守つてゐるのも別種の犯罪的好奇心などが伴つて――おゝ、枕元に書物が一冊翻つてゐるな、何の本だらう? とか、側卓子の上に珈琲茶碗が! おや、二つある! 兼書斎ではあるが、娘の寝室など訪れた者があるのかな? 若し前夜のことゝすれば、後片づけの間もない程の夜更けか! ……そんなやうな痴想に暫く耽つてゐたが、何時まで経つても娘の姿は現はれようとしないので、僕は苛々と
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