のである。――此方に、こんな建物が一つあるが到底肉眼では窓と窓の顔は判別も出来ぬ距離であるし、他にはA子の窓をさへぎるものは、それこそ鳥の影より他にはない渺々たる天空に向つてゐるわけであつたから、睡眠者は気兼なく窓を開け展げて爽かな眠りをとることが出来るわけである。
 A子は、規則正しく九時に起床する。僕の執務時間は九時からである。――が、僕は大概八時か八時半に出勤して、直ちに仕事にとりかかるのが慣ひになつた。
 稀に見る勤勉家だ、何といふ好もしい学者肌の青年だらう――と此処の所長は僕のことを噂してゐるさうだ。
 思へば汗顔の至りだ。

     三

 彼女の父親の名前は僕も兼々聞き知つてゐた神経病科の有名な医学博士である。
 僕は、好奇心的野心を抱いて、患者となり済まし(が、診察を受けて見ると、やつぱり僕は神経衰弱症患者ではあつたが――。)ビルヂング街にある博士の診療所へ、此方の仕事の合間を見計らつては通つてゐる。僕は、勤めを始めてからは終日の規律正しい労役! のお蔭で爽快な健康体に戻つてゐると自分では思つてゐたが、博士に向つては、不眠症だ! と憂鬱な顔をして呟いたりした。
 或日
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