て満足には書けない癖に――お金の勘定は誰がして呉れたと思ふ? 誰が……」
 彼には母の言葉がはつきり聞えなかつた。耳も頭もガーンとしてゐるばかりだつた。用ひ古したレコードの雑音を聞くやうな不快を覚へるだけだつた。
 母も母なら、清親も清親だ――眼の前でそんなに母から労力を吹聴されて、てれもせず平気でゐられる清親風情奴! などと、彼は思つたりした。清親は、母に代弁させてゐるやうなつもりで、厭に得意らしく、頤をしやくり上げた儘済してゐた。
「叔父さんにお礼を云ひなさい。」
「誰が頼んだ! 余外なお世話だ。」彼は叫んで、一寸立ちあがり、ドンと一つ角力のやうに脚を踏み鳴して、直ぐまた坐つた。徳利位ひ倒れるかと思つたのに、徴兵検査は体量だけで落第し、それ以来五百目も増へない十一貫なにがしの彼の重味では清親の盃の酒さへ滾れなかつた。
「貴様などは自家《うち》に帰る資格はないんだ。何処へでも出て行け。」と臼のやうに肥つてゐる清親は叫んだ。
「俺の家だ。」
「私の家だ。」一言毎に母は清親に味方した。成程この家は、母のものださうだ。そんなことはつい此間まで彼は知らなかつた。――俺は阿母にだつて出来るだけのことはしてあるんだ。――そのことか何か知らないが嘗て父が彼にさう云つたことがある。
「俺の兄弟だつて、それは皆な役に立たないが、阿母達見たいに意地の悪いところはない。」父はさう云つたこともある。
「僕はこれで、仲々意地が悪いよ。」彼はにやにや笑ひながら云ひ返した。彼が、父の思ひ出の断片は悉く酔つた父子のことばかりである。
「さうかね。」と父は一寸考へた。「貴様の顔は一体俺に似てゐるのか? それとも阿母系統か?」
「顔は親父系統で、心は阿母系統かな!」彼は、出たら目に笑ひながらさう云つた。
「そんなことはありませんわ。」とお蝶が傍から口を出した。「心は……」
「もういゝ/\。」と父は楽し気に手を振りながら「お前えは俺程の度胸がないからな。」
「ハツハツハ……阿父さんの度胸は一寸的が外れてゐるんぢやないの?」
「損をしても驚かない度胸だよ。」
「さうでもないでせう、やり損ひをすると五日も六日もムツとした顔で寝てばかし居たことがよくあつたぢやありませんか。」
「あれはね。……」と父は一寸笑顔を消して「あれはね、損を後悔するわけでないんだよ、何と云つたらいいかな、俺は時々さういふことがあるんだ。何をするのも厭になるといふやうな、無茶苦茶に気が鬱いで……ターミナル・ペツシミストとでも云ふのかね、柄でもないんだがね。」
「楽天的厭世家《オプテイミステイク、ペツシミスト》! そんなものがあるか知ら。」
「そんなものがあるものか!」
「止さう/\。そんな話は――」彼は、ふつと厭アな気がして、庭に眼を反向けた。
「貴様には友達はないのか。」暫くして父はそんなことを訊ねた。
「あるにはあるけれど……」彼は、さう云つたものゝ気が滅入つた。
「親類の連中なんて当にはならんよ。」
 彼には父が、どうしてそんなことを云ふのか好く解らなかつた。
「僕だつて皆な嫌ひだ。」
「嫌ひだ、で済むうちは好いが……」
「清親なんて云ふ奴は、何て厭な奴だらう。」
「貴様がそんなことを云つたつて仕様がないぢやないか――」
 そんな話から、いつか友達のことに移つて行つた。イギリス人に親しい二人の友達を持つてゐることなどを父は話したりした。
 その時分同人雑誌の会合が毎月一度宛あつて、彼は厭々ながら稀れに上京した。――どうしたハズミだつたか、父は、来て呉れるやうな友達があるんなら、一辺此方へ皆なを招待したらどうか? といふやうなことを云ひ始めた。この前彼等に会つた時、
「近いうちに一辺タキノの小田原へ行つて見やうぢやないか。」といふ話があつたことを彼は不図思ひ出したので、
「ぢや今度行つたら聞いて見やう」と父に答へた。
「皆な主に何をしてゐる人なの?」
「新聞社とか婦人雑誌社とか中学の先生とか……」
「雑誌や先生は厭だが、新聞社はいゝな。」
「皆な相当に偉いらしいですよ。」
「東京の新聞社ぢや大したものだらう、尤も俺は日本の新聞社は何処も知らないが、――ヒラデルヒヤの学校にゐた時分の友達で、ベン・ウヰルソンといふ男が今でもニユーヨーク・ヘラルドの論説記者をしてゐる、つい此間も手紙を寄した、そら、お前が子供の時分にオルゴールを送つて呉れた人だよ。」
「さうさう、Twinkle Twinkle Little Star, How I wonder what you are といふ……さうさう、今でもあるかも知れませんよ。」彼は変に細かく叙情的な声をした。
「いつかベンに手紙を書いた時、俺の倅も今では大学を卒業して、新聞記者になつてゐると云つてやつたことがあつた。それはさうとお前はいつの間にか止めちやつたんだね。」
「僕、新聞記者は嫌ひになつてしまつたからさ。」
「ぢや、何になるんだ。」
「来年あたり欧洲へでも行きたい。」彼はてれ臭くなつて出放題を云つた。
「一二度行つて来るのも好からう。」父は常に自分が外国で永く暮したことを鼻にかけて、こんな話になるとワザとらしい淡々さを示すのだつた。自分は東京へ行くのさへ億劫がる癖に。「俺も来年は一寸行つて来やうかな。」
 彼は、わざ/\同人連中を迎へに東京へ出かけた。汽車賃がかゝるから厭だと云つて半分の者は、いざとなると止めてしまつた。残りの五六人が来た。その時周子は、河原や石黒といふ名前を知つたのだ。父は、そんな[#「そんな」に傍点]ことは明らかにせずにお蝶の家の方に招待しやうぢやないかと云つたが、彼は、余り打ち溶けてゐない友達だつたから遠慮した。その頃彼は海へ近い方に、独りで勉強と称して新しい家を占めてゐたので、其処に泊つて貰ふことにした。
「借金をしたつていゝから、大いにやつてくれ。」人を招くことの好きな父は、調子づいて、母に厭な顔をされた。
 毎月の同人雑誌に出した創作の批評をする会合なのだ。会合の宿を一度も彼はしなかつたので、厭味を云はれたこともある。六七人来た。彼等と酒を飲んだのは、彼は始めてだつた。その晩は「批評会」は止めようと、彼等の一人が云つた。
 彼等は、直ぐに酔つた。彼は、珍らしいことには何時までも酔はなかつた。彼が好む学生気分の少しもない連中で、「俺はボーナスを幾ら貰ふ」とか「扇風機を買はうと思つてゐる」とか、また「日本の文壇なんて相手にしまいぜ」とか、主に彼等はその場限りの話に打ち興じてゐた。その最中に、すつと下手の唐紙が開くと、そこに羽織袴の父が、かしこまつて一礼してゐた。彼は、ハツと胸を衝かれた思ひがした。
「僕、△△新聞の斎藤茂三郎。」少ばかり酔つたひとりがさう云ひながら、父の傍へ行つて、
「あなたがタキノのお父さんですか、お父さんとは見へませんなア。」
「どうして袴なんかはいて来たの? 何処かの帰り?」彼は赤い顔をして、そつと父にさゝやいた。誰が命じたのか彼は知らなかつたが、父の会席膳も用意されて来た。
「タキノも東京へ来んけりや駄目ですぜエ、こんな田舎に引ツ込んでゐちや……」
「どうぞ、よろしく。」
「田舎も稀には好いですがなア、血気の青年が親の傍に居るなんて……」
「さうですとも/\。」と父は快げに賛同した。「何とか使ひ道はないものですか?」
「僕の社に世話をしませうか、僕は現在では議会方面を担任してゐますが、もう一人や二人は若い記者が必要なんですがね……」
「うむ、そりやいゝですなア、男は政治方面に入り込まなければ嘘です。」
「帰つたら早速取り計ひませう。」
 彼は、凝ツとして其処に坐つてゐられない気がした。親父が子供のことを、何分よろしく――なんて、さぞ/\皆な肚のうちで笑つてゐることだらう。
「この土地はこれで花柳界の方は仲々……ださうですな、社の連中の噂にも稀には出ますよ。」
「とても……」さう云つて父は一寸顔を赤くしたが、幾らか酒が回つてゐるらしく急に元気な声を挙げて「どうです諸君! 出かけて飲まうぢやありませんか……」などと云つた。
「よう、よう、賛成/\。僕らはもう学生ぢやないですからなア。」
「僕ア……」と彼の父も云つた。「頭はこう禿げてゐるが……」
「いよう、タキノの親父は素的だなア……」
 斎藤は、見るからに上べの冷笑を浮べて、からかつた。
 父は彼に、耳打ちをして、何故こゝにもお酌を呼ばないかと詰つた。彼は意地悪く聞へぬ振りをしてゐた。――父は彼に、厳しく促されて、挨拶だけ済すと、待せてあつた俥で帰つて行つた。「あとからお蝶の方へ来いよ、お蝶の方へ。」そんなことを、玄関に出た時まで彼に伝へた。父の俥の音が消ゆると、一同はドツと笑ひ声を挙げた。
 彼等が帰つた後も、晩酌の時になると父は屡々嬉しさうに彼等の噂をした。斎藤からはその後何の返事もなかつたが、彼は父にはさうは云はなかつた。その後たつた一度東京で彼等に会つたが、誰の口からも一言も小田原の話は出ないので、彼は寧ろホツとした。彼は、父が死んだ時、友達のうちで父を知つてゐるのは彼等だけだつたが、誰にも通知は出さなかつた。
「自家《うち》の親類は皆な薄情だから、俺に若しものことがあると困るのは貴様だけだぞ。どんな相談相手だつて自家にはないよ……」
 父は、よくそんなことを云つて彼に厭な思ひをさせた。

[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]

「貴様などは長男の資格がないんだ、親不孝奴! 親の葬式の始末も出来ない癖に……」
 清親はさう云つて一気に彼を圧倒しようとした。
「俺が死んだつて、後の始末なんて誰にもして貰ひたくないツて、――」彼は胸が涙ぐましく詰つて、危く清親に不覚の敗北を取りさうな細い声に変つたのに自ら気づいたから、突然家中に鳴り響く大声で、
「親父が、僕にさう云つたア/\。」と滅茶苦茶に喚いた。
「狂ひだ。」と母が云つた。
「貴様達が親父を殺したも同様だ。」達といふのは周子をも含めて、清親が云つたのだ。
「さうだ。」と母も云つた。
「俺は周子如き女に甘くはないんだぞ。」彼は真心から叫んだ。清親や母は、周子にそゝのかされて彼が母に反抗するのだ、といふことを蔭で云つてゐるさうだ。
「手前の女房に馬鹿にされる奴も、まさかあるまいよ。」清親は憎々気な冷笑を浮べてせゝら笑つた。
「それぢや何故、俺のことを蔭で、そんなに云つた。……卑怯な奴等だ、そんな連中は、母とも叔父とも思はない。」彼は口惜しさばかりが先に立つて、言葉が出なかつた。
「女房さへあれば、いゝのか。」清親は更に嘲笑つた。
「…………」
 彼の極度に亢奮した心は、またふつと白けて、おどけて芝居のことを思つた。若しこれが新派劇だつたら、俺の役は一寸好い役だな! して見ると母も清親も、この儘舞台に伴れ出したら相当の喝采を拍すだらうよ――などゝいふ気がすると同時に、彼はわけもない冷汗が浮んで、心は虫のやうにジユツと縮み込んで、そつと清親と母の姿を眺めた。
「俺は、もう一生家には帰らない。周子とは、そんなら別れた上で、貴様達と喧嘩するぞ。」彼の気持は妙に転倒して、そんな拙いことを清親に云つた。
「勝手にしろ、自分の女房と別れるに人に相談はいらないよ。」
「……」彼は、また文句に詰つた。ほんとに周子とは別れやうか、思へば俺だつて彼奴の親父などは癪に触つてならない――そんな事を彼は思つてゐた。
「親父の位牌を背つて出て行つたらいゝだらう。」
「……」彼は涙を振つた。
「独りもいゝだらうし、親子三人伴れもいゝだらうし……」清親は、勝利を感じたらしく快げに呟いだ。
「何だと、もう一遍云つて見ろ。」彼は、何の思慮もなくカツとして、極くありふれた野蛮な喧嘩口調になつて腕をまくつた。
「何遍でも云つてやらう、百遍も云つてやらうか!」
「うん、面白い、さア百遍云つて見ろ。」
「何といふ了見だ。」母は傍からさへぎつた。とても清親が百遍それを繰り反せる筈はなく、さうなるとこゝぞと云はんばかりにしち[#「しち」に傍点]くどく追求しやうとする彼の卑劣な酔ひ振りを母は圧へねばならなかつた。
「百遍聞かないう
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