に母を操つてゐる気がした。
「そりやアさうね、その日暮しのそだち[#「そだち」に傍点]をして来た者は御苦労なしだよ。……だからお前がそこをしつかり教育さへすればいゝんだ。」
「なまじイヽ家からなど貰ふと反つて気詰りでせうね。」彼は多分の皮肉を含めたつもりだつたが、母にはそれが通じなかつた。
「さうとも/\。」と母は易々と点頭いた。するとまた彼は、自分だけで周子に憤懣を覚へた。自分よりか、この阿母の方が矢ツ張り好人物なのかな? そんな気がした。
「これからはお前の代なんだから、痩せても体面を汚さぬようにしなければいけないよ。」
彼は、もう少しで噴き出すところだつた。
――彼は、若き男でありながら卑屈な姑根性なるものが、よく解る気がしてならなかつた。母の態度に、それを見る時、それを興味深く思ふこともあつた。飽くまでも執念深く発揮すれば面白いが――そんなに思つて不足を感ずることさへあつた。若し自分が、女に生れて、そして年を取つたら、古めかしい型通りに卑屈で強情な、さぞさぞ意地の悪い鬼姑が出来あがることだらう――彼はそんな空想に走つたりした。
「あそこの母親もね……」
「フツフツフ、……」
自分達だけは小高い丘に坐つたつもりで、他人を冷笑することの好きな母と子は、不気味な親しさに溶け合つて、卑しい笑ひを浮べた。
「あたしはあなたを見損つた。実に男らしくない人だ。」周子は、お蝶達の前もあつた為か、蒼い顔をして唇を震はせた。「今迄お金のことなどに就いては、如何にもキレイな顔をしてゐたのは大嘘なんだ。親同志が話し合つてしたことを……」
「親同志、なる程ね、得をした親の方はいゝだらうが、此方は損をしたんだからね、……」彼は落付き払つた態度をした、だが、なる程今迄は周子の前では、度胸が大きく金銭などに就いては非常に高潔振つてゐたことを思ひ返して、一寸我身に自ら矢を放つた思ひがして小気味好かつた。
「……何が芸術家だ! 友達などに会ふと体裁の好いことばかし云つてゐるくせに………」
「お前にも今迄は体裁の好いことをワザと云つてゐたんだよ。」
「大うそつき! そんな嘘つき芸術なんて……」
「あゝさうだ/\。俺は芸術家でもなんでもありませんよ、私には、あなたのやうに高尚な気分なんて生れつき持ち合せないんですからなア――だ。」
大分酔の回つて来た彼は、ほんとにさういふ気で、憎々しくふて[#「ふて」に傍点]くさりながら、ニユツとひよつとこ面をつくつて、周子の鼻先へ突きつけた。
「死んでしまへツ!」周子は金切声を挙げて叫ぶと、思はず彼の頬を力一杯抓りあげた。女が、さういふ形で極度に亢奮したのを見ると彼の心は全く白々しくほぐれてゐた。そして、得体の知れぬ快さを覚えた。
彼は、もつと/\周子を怒らせてやりたくなつて、にや/\と笑ひながら、
「理屈はいりませんから、先づ第一にお金を先に返して貰はうかね、エツヘツヘ……」
「お金は返せば済むことです、私が享けた恥はどうして呉れますか?」
「御尤も/\。――だが二万円は一寸好いね。あゝ、思つても好いね……」さうふざけて云つたが、ふと彼はわれに返ると、頭は夢のやうにとりとめもなく煙つてゐるばかりだつた。
「あなたが、そんな見下げ果てた了見だからあたし独りが家中の者から馬鹿にされるんです。あなたは自分の妻といふものに対して、一体どういふ考へを持つてゐるんですか、それから先に聞かせて貰ひませう。」
「あゝ、面白い/\。」彼は、妙に花やかな気持になつて、ふらふらと立ちあがつた。
「お光、俺と一処に踊らう/\。――周子も、もう止せ/\、……ところで、梅ヶ枝の手水鉢――といふ唄を皆なで合唱しよう。」
周子は、唄のことは知らなかつた。それで、酔つ払ひにからかふのは止めようとでも思つたらしく、赤い顔をして横を向いた。
この機会を取り脱しては、また厄介だと悟つたお蝶は、二三人の若い芸者に三味線を引くことを命じた。「梅ヶ枝の――」ではなく、彼の知らない賑やかな囃しが始まつた。お光が気乗りのしない掛声をして、鼓を打ち、太鼓をたゝいた。
「あゝ清々といゝな! この分なら親父の二代目だぞ……」
ふつと彼は喉が塞つた。
彼の酔つた頭は、意久地もなく無反省に、明るく溶けてゐた。
「合掌!」わけもなく彼は、そんな気がして、思はず静かに眼を閉ぢた。
――父上、私は何もいりません、私はあなたの凡ての失敗を有り難く思つてゐます。
暫くあなたに会ひませんでしたね、――この世に在ることも、無いことも、そんな区別はもう止めに仕様ぢやありませんか! どうですか、解るでせう、……少しも私は悲しいだの、寂しいだのなどゝは思ひません、愉快ぢやありませんか! 今日は、またひとつ大いに飲まうぢやありませんか。
いつか私が、あなたから招ばれて、どうも阿母や周子たちが困つた顔をするので、それでも私は行きたくつて堪らず、とうとう彼等を偽つた私は、テニスのシヤツ一枚でラケツトを担いで、自転車に飛び乗つて、こゝに駆けつけたことさへありましたつけね、お客人や芸者達に私はあの時随分キマリの悪い思ひをしましたが、あなたは平気で、少しも笑ひませんでした。笑はないあなたを反つて私は可笑しく思つたりしましたぜ――。
まア、そんなことはどうでもいゝんだ。あなたは貧乏になる時の私を大変心配してゐたらしいが、そんな臆病は今の私にはすつかりなくなつてゐます、……あなただつてほんとは貧乏だつたんぢやないですか! あの時分は……。
彼は、そんな他愛もない文句を、とりとめもなく思ひ浮べたが、それはたゞ徒らに喫す煙草のやうに何の心に懸はりなく、心は白く漠然と明るく澄んでゐるばかりだつた。
お光は、精一杯喉を振りしぼつて、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]のやうな叫び声を挙げて、切りに太鼓を打ち続けた――。
お光、お前も可愛想だよ、馬鹿/\しいからそんなに精を出すのを止めろよ、何としても俺ぢや駄目だぜ。お前達もこの先どうなつて行くのか? そしてこの先この俺もどうなつて行くのかな?……。
彼の、もろい頭は更に感傷に走つてゐた。
お蝶も、皆なと一処になつて三味線を引いてゐた。
その時、隣室に寝かせてあつた彼の三才の子供が疳高く、怯えた泣声を挙げた。――不興気に、ぽかんと一座のこの光景に視入つてゐた周子は、慌てゝ隣室へ駆け込んだ。
彼は突然、くしやツと、一見すると笑つたやうに口もとを引きつらせた。それが彼の、泣き顔なのだつた。彼はグツグツと喉を鳴らしながら、一杯涙の溜つた眼を梟のやうに視開いてゐた。そしてお蝶達が隣室に遠慮して三味線の手を止めやうとすると、彼はきゆツと唇を歪めた儘伏向いて、もつと続けろ/\といふ意味のことを、何かを戴くやうな格構に差し出した両腕を切りに上下に振り動かせて、彼女等にすゝめた。
[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]
「阿母さんだつて、決してあなたの為にならないやうな事を考へてゐなさるものですか。第一ですね、斯んな場合にあなたが家をあけて、その上あんな場所に泊り込んでゐるなんて外聞が悪いぢやありませんか。」
「僕は、帰つてはやるが、阿母とも岡村清親とも、顔を合したつて口は利かないよ。承知だらうね。」と彼は念をおした。清親といふのは彼の母の二つ年上の兄だが、彼はこゝで「叔父さん」といふのが業腹だつたので、わざと長たらしく姓名を呼んだのだ。
「私が一処だから大丈夫さ。」宮原は彼を伴れ帰りさへすれば役目が済むとでも思つてゐるらしい無責任な調子だつた。宮原は彼の父が在世時代から、彼の家の細々した走り使ひなどをしてゐた父より余程年上の年寄である。一寸宿屋の番頭のやうな型の男で、カラお世辞が巧みで、父の居た頃は彼は殆ど言葉を交したこともなかつた。
「話だけは、はつきり決めて置かなければなりませんよ。その上でならあなたは東京へ行かうと、自分の好きなことをやらうと差支へありません。」
「話とは何だ? 好きなことをやらうとやるまいと余計なお世話だ。それに、もうこれからはそんな余裕のある身分ぢやない。」
「そんなことあるものですかね、あなたさへ確りしてゐれば、安心なものさ。」
「僕は何も心配なんてしてはゐない、確りするもしないも、僕は僕だ、……」
「若いうちは、元気があつて羨しいね。」
「チエツ! 何云つてやがるんだい。」
宮原はどんな酷いことを云はれても怒らない男だつた。それをいくらか彼は、附け込んでゐた。
酔つて足もとの危い彼は、宮原に促されて不精無精に清友亭を出た。周子も昼間、宮原に伴れられて帰つたが、何としても厭だと云つて今は宮原の家に居るといふことだつた。
彼は、宮原の後ろに従つて、仮普請で建付きの悪い格子を閉めて自家の玄関を入つた。彼の胸は怪しく震へた。子供の時分、運動会で出発点に並んだ時、これに似た気持を経験したことがある――などゝ彼は思つた。
清親と母は、物思ひに沈んでゐるだらうと思つた彼の予感を裏切つて、割合に明るい顔をしてゐた。清親は正面に大胡坐を掻いて、酒を飲んでゐた。そして彼の顔を見ると、確かに笑つてゐた顔を急に六ツヶ敷く取り直した。
彼は挨拶もなく、敷居傍にぬツと坐つた。その彼の態度を、母が苦々しく感じたことを悟つた彼は、更に太々しく黙つて煙草を執つて、悠々と煙を吹いた。
「おーい、俺にもお酒を持つて来てお呉れ。」
彼は、台所の方へ声を掛けた。
「何しに帰つて来た?」と清親は眼を据えて彼を睨めた。
「何しに帰つて来たとは何だ!」彼も清親のやうに太く重い作り声で、訊き返した。
「何事です。」と母は飛びつくやうな声を挙げた。「叔父様に挨拶をしなさい。」
「厭なことだ。」彼はさう云つて、凝と清親のたるんだ頬のあたりを視詰めた。彼が母方の者に斯ういふ態度をしたのは始めてゞ、その為に清親や母が何れ程自尊心を傷けられたか? と想像すると彼は愉快だつた。だが胸の鼓動は異様に高かつた。宮原は、あつ気にとられて切りに煙管をひねつてゐた。
清親と母は軽蔑された憾みを火の如く烈しく炎やしてゐるだらう……さう思ひながら彼等の亢奮の上句蒼ざめた顔色を、等分に眺めた彼は「馬鹿奴、こゝのところは俺は親父とは違ふんだぞ!」と云つたつもりの力を込めた。
「何しに帰つて来たんだ。」余程気が転倒したと見へて、清親はまた同じことを繰り返した。
「自分は何しに来てゐるのだ。フヽンだ。」
彼は茶飲茶碗に酒を注いで、一息に飲み下さうとしたが、とても不味くて、そんなことは出来なかつた。彼は、たゞ狐のやうな虚勢を示すばかりだつた。今迄は清親と会へば、いつも行儀よく膝も崩さず、「叔父様」と呼び「私」と称してゐた彼だつた。それも母の教育で、彼女は自分の身内に対しては飽くまでも厳めしい礼儀を強ひるのだ。それもいゝだらう、それならば何故此方の者のこともさうしないのだ……彼は、清親と母が、父が居る時分でも、父が留守だと、父を冷笑的に批評してゐたのを知つてゐた。
「御挨拶をしなさい、挨拶を――」
母は事更に言葉をそこに引戻さうとして、彼に詰つた。
「厭だと云つてゐるぢやないか。誰がくそ――」
彼は洒々として天井に顔を反向けた。親父の兄弟の悪口なら喜んで聞く癖に……何が礼儀だ。
「岡村清親なんて出しや張るな!」
「叔父をつかまへて呼び棄てにするとは何事か!」清親はカツと口を開けて怒鳴つた。母は眼眦を逆立てゝ彼を睨めた。
――斯うなれば何と悸かされたつてビクともしないぞ――彼はそんな力を容れた。
「貴様が家をあけて、誰が家のことをすると思ふ、清親叔父さんだからこそ斯うして親切に面倒見て呉れるんだ。自家の兄弟なんて幾らあつたつて、役に立つ人は何もないぞ。」
母はキンキンと響く声で滔々と喋り始めた。その言葉の内容の如何に係はらず、この種の母の文句を耳にすると、彼は無性に肚がたつのが癖だつた。理性もなにもなく、たゞ嫌ひな料理を無理矢理に鼻の先へ突つきつけられるやうな嘔吐感を催すのだ。
「生意気な口をきくなら、何から何までキチンと自分で始末したらどうだ、手紙一本だつ
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング