家が潰れて以来彼は東京へ出て、以前関係のあつた新聞社の社会部の下級社員に採用して貰つたのだ、そして小胆な彼は汲々として働いてゐるのだ、母達の懸念とは全く反対に、母や妻や子供のことばかしを案じながら、文字通りに善良な日を過してゐるのだ。
「お父さんが丈夫な時分は好いだらう、私だつてお前が思つてゐる程のお金持ぢやないよ、それだのに此頃は、この前に務めた頃に比べると五六倍も余計なものを……」
「僕は、これから東京で事業を起さうと思つてゐるんです。」彼は、てれ臭さのあまりそんな出たら目を口走つた。彼は新聞社へ入つた当座は、お調子者だから気軽くぽんぽんと飛び廻るので大分うけ[#「うけ」に傍点]も好かつたのだが、近頃では次第に同僚達に安ツぽい肚を見透かされて、今では社内の軽蔑の的になつてしまつたのだ。
その癖彼は、自家に戻ると母や細君やお蝶の前では、夢にもない大きな法螺を吹くのだつた。例へば、もう半歳もすれば社会部長に昇進するとか、社長に最も信用のあるのは自分だけで、現在では社長の第一級の秘書を務めてゐるとか、だから一ヶ月のうち半月は休んでもいゝのだとか、だからそれは一家一族の名誉にもなることだから、金銭などを念頭に置いてゐられる場合ぢやないとか……。
「事業はお父さんで懲りないのか。」
「僕だつて一つ位の事業はやりたいものです。万一僕が一つや二つの事業に失敗したからとて、それが何です。親父は幾つとなく事業をやつて皆失敗したぢやありませんか、僕だつて僕だつて……」
「そんな資本金はもう家にはない。」
「親父が皆な費つてしまつたんだ、阿母さんだつて一処になつて面白い思ひをしたに違ひない。一等馬鹿/\しいのは僕だけだ。」清友亭位ひで少々費ふのが何だ――彼は、母が意に留めてゐないところにこだはつた。
「……」母は、あきれて横を向いた。そして唇を噛んだ。
[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]
彼は、お蝶に酌をされながらチビチビと酒を飲んでゐた。縁側には、五月の明るい陽が一杯射してゐた。周子は、眠つた子供を抱いて、お蝶のことを姐さん/\と称んでゐる若い芸者の百合子を相手に、縁側の隅で呑気な雑談に耽つてゐた。彼が清友亭へ来て以来、一週間近くにもなる。酒に飽きると、稀に彼は母の家をのぞいたが、一時間も居ずに引き返した。いつの間にか、周子も子供を伴れて此処に来てしまつたのだ。
「あたしだつてもう家には帰れないんだから、あなたが東京へ帰るんなら一処に伴れてつて下さい。」周子は、彼とお蝶との話に気づいて呼びかけた。周子は、彼の味方になつて叔父と母の前で争ひをしたのだといふことである。それが為に彼が内心どんな迷惑を感じてゐるか、彼女は知らなかつた。
「東京へいらつしやる、いらつしやらないは別として、若い奥さんまでが此処に来てしまつてゐるのは好くありませんよ。」
「何だか私たちが、蔭の糸を引いてゐるやうにお宅の方に思はれる気がします。」
女将とお蝶は、迷惑がつてさう云つた。周子は苦笑ひしてゐるばかりだつた。彼は、憎々しく周子の様子を打ち眺めた。
周子が来て以来、夜になつても賑やかな遊びも、トン子の顔を見るわけにもゆかないのは彼は不服だつたが、斯んな風な状態で周子達と共々此処に引寵つてゐるのも「一寸アブノルマルな感じがして悪くもない。」などと思つた。嘗て「真剣」とか「緊張」とか「深刻」とかいふ文学的熟語に当てはまるやうな経験を持つたことのない彼は、一寸夢見心地になつて自分の現在の境遇を客観して見たりした。――父の急死から一家の気分が支離滅裂になり、長男が慌てふためくこと、彼の細君が露骨に彼の母に反抗し始めたこと、母は自分の兄弟達と相計つて愚かな長男を排斥して善良な弟を擁立しようとすること、長男が嫉妬心を起すこと、そして彼は父の馴染だつたお茶屋に細君と共々滞留して、お蝶達を集めて不平を鳴してゐること――そんなことを思つて見ると彼は、今更のやうに自分が「非常」な境遇に面接してゐるやうな気がするのだつた。そして小説とか芝居とかに見る「悩める主人公」に自らを見立てゝ、自ら「深刻」なつもりのヒーローになつて安価な感情を煽りたてた。彼は、ワセダ大学に在学当時、クラスの文芸同人雑誌に加つたことがあつた。そして彼等の議論に接して怖れを抱いたことがあつた。彼等は非常に「真剣」だつた。口を開けば必ず「芸術」と叫び「魂の悩み」を歌ひ、「血みどろに生きる」ことを誓つた。「十三人」といふ名前の雑誌だつた。彼は、去年一年自家を追はれて熱海に暮した時、退屈のあまり「十三人」の頃の自分のことを長く書き綴つたことなどを、ふと思ひ出した。……彼は、今の事件を小説的に書くことを考へて見た。すると彼の気持は、おどけて散乱してしまつた。事件などには、何の興味も持てなかつた。父の死、破産、長男のこと、母のこと……それだけで、キレイに片づいて了ひ何の細い感情も伴はなかつた。折角の「深刻」も「緊張」も後かたなく吹き飛んだ。
「さうだね、周子は兎も角あつちへ行つてゐた方が好いね。」
「あなたまでが、そんなことを云ふんですか。」周子は頑なゝ眼つきで、恨めしさうに彼を視詰めた。
「あゝ、さうか/\。」彼は、軽々しく点頭いて「まア、そんなことはどうでもいゝや、皆な心配するねえ、おいチビ公! 貴様ひとつ踊りを踊つて見ろ。」
雛妓をしてゐるお蝶の養女お光をつかまへて、彼は威張つた。が、彼の気持は未だ一寸小説の空想に引つ掛つてゐた。ふと「十三人」の頃のことなどを思ひ出してゐた。同人にはなつてゐたが彼だけは仲間脱れにされてゐた。
「彼奴は人生を遊戯視してゐる」とか「末梢神経の奴隷だ」とか「甘くて浮気な文学青年だ」とか「人生の暗い悩みなんてに気附かないのだらう」とか「あんな奴がどうしてわがワセダ大学の文科などに入つて来たのだらう、幼稚な夢を描いてゐるとしたら惨めなものだ」とか「カフエーにでも行つて歌でも歌つてゐればいゝんだ」とか「不真面目で、酒飲みで……」とか、そんな風に彼等から片づけられてゐたが、そして彼はそれでは一寸味気ない気もしたが、人生を遊戯視してゐるも、してゐないも、そんな理屈は考へたこともなかつたし、彼等からさう云はれると、或はさう云ふ種類の人間かな? と思はれもした。といふた処で、何とするわけにもゆかず、有耶無耶に彼等から離れて仕舞つたまでのことだ。そして、洞ろで悲しいやうな心を抱いて東京を離れた。
「あゝ。」と彼は思はず溜息を洩した。「俺は何といふ阿呆な人間だらう、何といふ頼母しくない男だらう。」そんな風に鞭打つて見ても、何ら感情が一点に集中して来なかつた。彼等の所謂「芸術的」にも「真剣」にもなつて来なかつた。
「あなた! 何を考へてゐるの?」
「いや、兎も角、お前達を伴れて東京へ行くとなると……」
「心細いの?」
「うむ……」
だが彼は、別に心細くもなかつた、と云ふてその反対のものでもなかつた。
「古い十三人のお友達だつてあるでせう、その人達の中には一人や二人は、あなたの思案にあまることは、相談になつて呉れる人だつてあるでせう、河原さんといふ人や石黒さんといふ人や……」
そんなことを云はれると、彼は急に変な心細さに襲はれて、
「お前に斯んなことを云ふのは、悪いことだが――」と口のうちに弁解しながら、
「俺は、実は彼等をあまり好んでゐないのだ。」と云つた。それは彼の、小人らしい卑しい自尊心だつた。正直な心では、寧ろ斯う云ひたかつたのだ――俺のやうな男とは、彼等の方がほんとには附き合つて呉れないのだ、普段ぴよこぴよこしてゐる罰で、斯んな時には惨めなものだ。
「そんな考へだから駄目なのよ、そこのとこだけは没くなつたお父さんは偉かつたんぢやないの。随分大勢の人が出入りしたが、誰とでも親しく、そのことをお母さんからあんなに厭がられても、誰にだつてお父さんは厭な顔なんて見せたことはないぢやありませんか。」
「死んだと思つて、讚めるな。」
「あなたの心は曲つてゐる――。お父さんが繰り反し/\云つてゐた通り、お蝶さんの方と家を持つたのは、あれは確かにお蝶さんの為ばかしぢやないのよ、確かにお客の為よ、自家《うち》だとお母さんが厭な顔をするもので……」
「俺ア、手前んとこの親父は大嫌ひだ。」
「今は、あなたのお父さんの話をしてゐるところぢやありませんか。」
「熱海へ行つてゐる時分、貴様は俺の親父の悪口ばかし云つてゐたらう、顔を見るのも厭だなんて云つたらう。」
「あなただつて云つたぢやないの。」
「黙れ、貴様の了見は下品だ――第一俺は手前の阿母が、これまた気に喰はないんだ、あのペラペラと薄つペラな唇を突き出して愚にもつかない自分好がりの文句を喋る格構は想像したゞけでも鳥膚になる――アヒル婆アだ、貴様も好く似てゐる……」
「自分の阿母さんは、どうだ。」
「…………」
お蝶と百合子が、まアまアと云つて彼をなだめたが、彼は諾かなかつた。
「貴様の親父は悪党だ! 金を返してくれ、金を返してくれ、あの紙屑爺のおかげで家では二万円も損をした。」
「うちのお父さんのおかげで、あなたのお父さんは借金することが出来たんだ、あなたのお父さんみたいな無頼漢は、小田原でさへちやんとした人は相手になんてしませんよ。」
「さうだらうよ、さういふ人のところに、巧みな甘言を用ひて附け込んだ貴様の親父は、悪漢だ。質が好くないといふものだ。手前えなんぞは何処の馬の骨だか解つたものぢやないぞ!」
初めのうちはそれ程無気になつてゐた彼ではなかつたが、ふと二万円といふ言葉が浮ぶと、父が死んで以来心の調子の狂つてゐる彼は、そんな種類の金のことなぞを耳にしても、かツと取り逆せて夥しい疳癪を起すのだつた。そして、そんなに古臭い、彼の母でもが云ひさうな文句を叫んで、何の罪もない周子を虐待した。口先でばかり巧みなお座なりを喋つて、娘の縁家先などを餌食にした周子の父親の心根を想像すると、その片割れである周子の色艶までに憤懣を起したりした。「男ならば、それであればこそキレイな親情を示していゝわけだ。」周子にそんなことまで云はれたこともあつた。
つい此間、彼が母と共に父の書類を整理した時、遇然周子の父親の名前になつてゐる借金証書を発見して、二人とも唖然とした。自分勝手に周子などゝいふ女と結婚したのが、父や母に対して慚愧の至りに堪へぬ気を起したりした。
「周子の家の方は、一体この頃どうなつてゐるんだらう?」母はいくらか彼に遠慮しながらそんな風に訊ねた。
「どうだか僕は、少しも知らない。」彼は不機嫌に呟いだ。尤も彼も母も、前から周子の父親があまり質の好くない人間であることは薄々知つてゐた。
「あんな家は駄目だ、失敬だ、……俺に対して失敬だ。」彼は常規を脱した声を挙げて、母に媚を呈した。
「どうも困つたものだ。」母はさう云つて、見るからに不快気な、棄鉢な格構をした。すると彼の胸に、もう一つ別な心が浮んだ。……困つたとは何だ! 何でもを自分のものと考へるのは図々しいや……そんな風に思つて彼は、一寸母をセセラ笑つた。そして母が今迄周子に執つた態度を回想して、あれぢや周子が口惜しがるのも無理はないと思つたり、また母から見たら、さぞさぞ周子までが心憎いことだらう、何と浅はかな母親よ――などゝ思つて反つて母に同情を寄せたりした。
「あの親父は、実に酷い奴ですね。」彼は、軽い遊戯的な気持だつた。
「だから御覧なさい、周子だつて似てゐるところがあるぢやないか、あの子はなか/\怖ろしい心を持つてゐるよ。」
「どうも僕にも気に喰はないところが!」
「あれぢやお前が時々疳癪を起すのも無理はないと私は思つてゐるよ、生意気だつたらありやアしない! あんなのが女優志願なんてするんぢやないかしら!」
「志願したつて仕様があるものですか、あの顔に白粉を塗つたらのつぺら[#「のつぺら」に傍点]棒だ――」
「クツクツク……」母は、嬉しさうに芙つた。「まつたくね! 遠国の者は気が知れないからね。」
「もつとも彼女《あれ》には悪い気はないですよ、悪気でもある位なら、いゝんだが……」彼は巧み
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