か、さつぱり心に何の目当も無いのに――。その芝居は、愚かな母をうまく煽動した。
母は、お前の可憐な心持は好く解つた――といふつもりらしく唇に力を込めて、微かに点頭いた。そして夫の顔を凝と視詰めた。
そこで彼は、父の立場を気の毒に思つて、
「それで……」と母に向つて云つたが、何と云つていゝか何《ど》んな言葉も続かなかつたので、たゞ如何にも物解り好さ気にニヤ/\しながら、隣家から駆けつけたお座なりの仲裁人の気持で、好い加減に口のうちで
「まアまア!」と呟いだ。
何とかして母の気分を紛らせて、父と母とお蝶と芸者達と、そして自分とが皆な有頂天になつて笑ひさんざめいたらさぞさぞ面白いことだらう――彼はそんなことを考へた。さう思ふと彼は、四角張つて自分の前に端座してゐる母の格構を打ちくつろがせるやうに計ることが、難題であればある程興味深く思はれた。遊女は凡て汚らはしき者と思ひ切つてゐる母である。彼が嘗て、遊里を讚賞する詩をつくつたのを母に発見された時には、
「腹を切る度胸があるか?」母は斯う叫んで拳を震はせた。
「ある一瞬間の心のかたちを、詩に代へたまでのことだ。」と彼は答へた。たしか彼が二十歳の時だつた。
「そんな子供は、私は生まない。」
「生まないと云つたつて、私は此処に斯うしてちやんと坐つて、息をしてゐる。」
「この親不孝者奴!」
母は夢中になつて、納戸へ駆け込んだ。間もなく母は、古ぼけたつゞれ[#「つゞれ」に傍点]の袋に入つた懐剣を携へて来て、彼が絵草紙で覚えのある桜井の駅の楠公の腕の如く、ぬツと彼の鼻先へ突きつけて、
「さア!」と云つた。人間の心持が高潮に達した時は、芝居的になるものだ。演劇のワザとらしさを笑ふのは不自然な業かも知れない――この時そんなことを思つたのを彼は今でも記憶してゐる。
「これは私がこゝの家に嫁に来る時持つて来た岡村家の女の魂だ。」
「女の魂?」彼は思はず慄然として問ひ返した。
「こゝの家はどうか知らないが、女だつて貴様のやうな腰抜にヒケを取るやうな女は、岡村の家にはゐないぞ。」
自分の里のことは何から何まで立派なものと据えておいて「こゝの家/\。」と此方の一味ばかりを、何の場合にでも弱虫の例証にしたがる母の愚が、グツと彼の胸に醜くゝ迫つた。
「私はこゝの家の長男だ、――口が過ぎる。」
「腰抜ざむらひの子か!」
「何だと……」
彼はカ
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