父の百ヶ日前後
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)家《うち》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)悪い/\
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[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

 彼が、単独で清友亭を訪れたのはそれが始めてだつた。――五月の昼日仲だつた。
「先に断つておくがね、僕今日は用事で来たんぢやないよ。……芸者をよんで、そして僕を遊ばせて呉れ。」
 彼は、玄関に突ツ立つて、仏頂面でそんな言訳をした。彼の姿を見ると、女将は眼を伏せて、黙つて頭をさげた。それで彼は、一寸胸が迫つたので、慌てゝそんな気分をごまかす為に、決して云ひたくはなかつたのだが、強ひて晴々と笑つて、
「僕だつて、斯うなれば時には独りの遊びをしたいからなア!」などゝ妙な声を張りあげて呟いだ。――斯うなれば[#「斯うなれば」に傍点]……その言葉がもう胸にセンチメンタルな響きを残した。
 清友亭は、彼には慣れた家だつた。地震で潰れたり焼けたりしない前の半年位の間、続けて来た日もあつたのだから、殆ど一晩おき位ひに此処へ来たのだつた、と云つても誇張にはなるまい。父親がお蝶といふ女と親しくなり、そして父親の事業の相談が忙しく東京などからお客が多かつたのだ。母が嫉妬深くて夜十二時近くなると、屹と彼を清友亭に差し向けた。母と彼と一処に乗り込んで、父の顔を赤くさせたことも度々あつた。
「旦那の百ヶ日は、もうあさつて[#「あさつて」に傍点]なんですつてね。早いこと……」
 女将は、何となく手持ぶさたらしく、窓に腰かけた彼を手をとるやうにして正座に落つかせた。
「よくあさつて[#「あさつて」に傍点]だなんて知つてるね。僕はおとゝひ迄そんなことを忘れてゐた。」
 いくら慣れてゐる清友亭だつたにしろ、彼は自分が主になつて然も独りで斯ういふ処に来たことはなかつたので、眼の据え処にさへ迷つた。彼は、食卓を前にして、痩躯を延して、かしこまつてゐた。
「忘れる人はありません。――それに昨日お宅から通知がありました。」
「何の通知?」
「御招待――」
「こゝに、はゝア! 阿母かしら?」
 問ひ
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