返すまでもなく彼は、心にその通りに思つたのだが、軽く空とぼけた。彼はそんな風に、わざとらしい淡々さを装ふのが癖だつた。そして、
「奥様は仲々気のつくお方ですよ。」などゝ女将の口からカラお世辞を云はせたのは、寧ろ彼の猿智慧だつた。そんな馬鹿な心を動かせてゐるうちに、彼は、はつきり親身の者の姿が個立して描けるやうな気がするのだつた。
 憐れな母親だ――彼は、さう思つて、如何にも自分には冷い観照眼があるものゝやうに思ひ違へて、イヽ[#「イヽ」に傍点]気な迷想に耽つた。
「うちの阿母は、随分可笑しな人だね。道徳を説くのは好いが、悲しい哉、彼女は嫉妬心が強い、悴――即ち吾輩の前に馬脚を現し……」
「もう済んだことです。」女将は彼を、叱るやうにさへぎつた。女将は、彼の心根の安ツぽさを見極めてゐた。
「僕、今日は独りでのうのう[#「のうのう」に傍点]と酔ふんだ。」
「これからは、あなたが当主なんですからね、しつかりしなければいけませんよ、少しはお母さんの心にもなつてあげなくては……」
「さういふ評判だつてね、親父が亡くなつて以来、家が益々傾いて来たんだつてね? 長男が何となく見得を切るのが悪いさうなんだよ。」
「悪い/\、お母さんがしつかりしてゐらつしやるうちは……」
 お世辞かな! と彼は邪推した。何としても彼には、この女将が彼の母をそんなに好く思つてゐるとは考へられなかつた。
「僕はね、この間君が阿母の見舞に来てゐたところを傍で見てゐた時、可笑しくつて仕様がなかつた……」
 うつかり彼は、そんなことを云つて取り返しのつかぬ思ひをした。家庭のボロ[#「ボロ」に傍点]を好い気になつて喋つてゐる自分の姿を考へて、救はれぬ思ひをした。それにしても、若し何処かに自分のやうな男があつて、傍からさんざんに其奴を煽てて、聞手になつて、その破境を眺めてゐたら、さぞ面白いだらう――などゝ思つた。
「家の阿母は何処がしつかりしてゐるかね?」
 彼は、微笑を含みながらさう云つた。
「通つてゐますよ――」
「だつて君は、さうは思はないだらう、……通つてゐるんなら有り難いが、少くとも君の眼に映じた彼女の印象はどうだ?」
「もうお酔ひになりましたね。」
 彼は、未だそんなに酔つてはゐなかつた。ほんとうに彼は、この女将の見た自分の母親は、いゝ加減彼の軽蔑観と一致するだらうと思つてゐるのだつた。
 彼は、父の
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