ツとして、いきなり母の手から懐剣をもぎ取ると、キヤツ[#「キヤツ」に傍点]と云つて、鞘で空をはらつた。すると母は非常に慌てゝ、
「もういゝ/\。」と云ひながら彼の腕を確りとおさへて離さなかつた。彼は湯殿へ駆け込んで泣いた。
 その時のことを思ふと彼は、自分に皮肉な嘲笑を浴せずには居れなかつた。「この愚かな損けン気は母の系統だ。」
 何年か経つた或る時酔つたまぎれの戯談に彼はそのことを父に話した。父は、膝を叩いて笑つた。――尤も彼は、父が嬉しがるやうに、出来るだけその時の母の言語や動作に尾鰭をつけて芝居もどきに喋つたのだ。そしてその時の自分のことは毛程も洩さぬのみか、返つて自分はその時も笑ひながら傍観してゐたのだといふやうに白々しく仄めかしたのだ。
「斯んなところでは話が出来ないから、兎も角私達の顔をたてゝ家へ帰つて貰ひませう。」
 母は更に切り口上で父に詰ると、彼に同意を求めて、
「ね、シンイチ。」と云つた。彼は仕方なく、
「それが好い、それが好い。」と親切ごかしの讚同をした。そして尚も母に逆に阿る為に、見るからに苦々し気な表情をして一座を眺め回した。彼が密かに想ひを寄せてゐる若いトン子は、部屋の隅に縮こまつて、この不気味な光景をぎよつとして眺めてゐた。彼は、彼女に大変気恥しい思ひをした。……「ひとつこゝで非常に凜々しい親孝行振りを発揮して律気者と見せて彼女の心に印象せしめてやらうかな?」彼は、うつかりそんな馬鹿な想ひに走つてゐた。そして彼は、あまりに小さく利己的にこだわるわが心を省みて、気持が悪くなつた。「腰抜けさむらひ!」胸のうちで、彼はそつと自分を叱ツた。
「シンイチだつてあゝ云つてゐるぢやありませんか。さア帰りませう。」
 いやに俺の名前を引ツ張り出すな! ――彼はそんなに思つて迷惑した。
 その時まで黙つてゐた父は突然、
「煩せエなア! 俺ア斯うなれば何と云つたつて今晩は帰らねえよ。」と怒鳴つた。それと同時に、さつきからむしやくしやしてゐた彼の心はポンと晴れやかに割れた。――親父! 無理もない/\、これから家へ帰つて大ツ平に意見されちや誰だつて堪るものか、居直れ/\――彼は心でそんな風にけしかけた。普段母の前では、何の口答へもせず我儘放題にさせておく父の態度を、彼は歯がゆく思つてゐるのだ。
 母は唖然として、彼の方を向いた。彼は母の味方だと云はんばかりに、
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