彼は念をおした。清親といふのは彼の母の二つ年上の兄だが、彼はこゝで「叔父さん」といふのが業腹だつたので、わざと長たらしく姓名を呼んだのだ。
「私が一処だから大丈夫さ。」宮原は彼を伴れ帰りさへすれば役目が済むとでも思つてゐるらしい無責任な調子だつた。宮原は彼の父が在世時代から、彼の家の細々した走り使ひなどをしてゐた父より余程年上の年寄である。一寸宿屋の番頭のやうな型の男で、カラお世辞が巧みで、父の居た頃は彼は殆ど言葉を交したこともなかつた。
「話だけは、はつきり決めて置かなければなりませんよ。その上でならあなたは東京へ行かうと、自分の好きなことをやらうと差支へありません。」
「話とは何だ? 好きなことをやらうとやるまいと余計なお世話だ。それに、もうこれからはそんな余裕のある身分ぢやない。」
「そんなことあるものですかね、あなたさへ確りしてゐれば、安心なものさ。」
「僕は何も心配なんてしてはゐない、確りするもしないも、僕は僕だ、……」
「若いうちは、元気があつて羨しいね。」
「チエツ! 何云つてやがるんだい。」
 宮原はどんな酷いことを云はれても怒らない男だつた。それをいくらか彼は、附け込んでゐた。
 酔つて足もとの危い彼は、宮原に促されて不精無精に清友亭を出た。周子も昼間、宮原に伴れられて帰つたが、何としても厭だと云つて今は宮原の家に居るといふことだつた。
 彼は、宮原の後ろに従つて、仮普請で建付きの悪い格子を閉めて自家の玄関を入つた。彼の胸は怪しく震へた。子供の時分、運動会で出発点に並んだ時、これに似た気持を経験したことがある――などゝ彼は思つた。
 清親と母は、物思ひに沈んでゐるだらうと思つた彼の予感を裏切つて、割合に明るい顔をしてゐた。清親は正面に大胡坐を掻いて、酒を飲んでゐた。そして彼の顔を見ると、確かに笑つてゐた顔を急に六ツヶ敷く取り直した。
 彼は挨拶もなく、敷居傍にぬツと坐つた。その彼の態度を、母が苦々しく感じたことを悟つた彼は、更に太々しく黙つて煙草を執つて、悠々と煙を吹いた。
「おーい、俺にもお酒を持つて来てお呉れ。」
 彼は、台所の方へ声を掛けた。
「何しに帰つて来た?」と清親は眼を据えて彼を睨めた。
「何しに帰つて来たとは何だ!」彼も清親のやうに太く重い作り声で、訊き返した。
「何事です。」と母は飛びつくやうな声を挙げた。「叔父様に挨拶をしなさい
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