母や周子たちが困つた顔をするので、それでも私は行きたくつて堪らず、とうとう彼等を偽つた私は、テニスのシヤツ一枚でラケツトを担いで、自転車に飛び乗つて、こゝに駆けつけたことさへありましたつけね、お客人や芸者達に私はあの時随分キマリの悪い思ひをしましたが、あなたは平気で、少しも笑ひませんでした。笑はないあなたを反つて私は可笑しく思つたりしましたぜ――。
 まア、そんなことはどうでもいゝんだ。あなたは貧乏になる時の私を大変心配してゐたらしいが、そんな臆病は今の私にはすつかりなくなつてゐます、……あなただつてほんとは貧乏だつたんぢやないですか! あの時分は……。
 彼は、そんな他愛もない文句を、とりとめもなく思ひ浮べたが、それはたゞ徒らに喫す煙草のやうに何の心に懸はりなく、心は白く漠然と明るく澄んでゐるばかりだつた。
 お光は、精一杯喉を振りしぼつて、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]のやうな叫び声を挙げて、切りに太鼓を打ち続けた――。
 お光、お前も可愛想だよ、馬鹿/\しいからそんなに精を出すのを止めろよ、何としても俺ぢや駄目だぜ。お前達もこの先どうなつて行くのか? そしてこの先この俺もどうなつて行くのかな?……。
 彼の、もろい頭は更に感傷に走つてゐた。
 お蝶も、皆なと一処になつて三味線を引いてゐた。
 その時、隣室に寝かせてあつた彼の三才の子供が疳高く、怯えた泣声を挙げた。――不興気に、ぽかんと一座のこの光景に視入つてゐた周子は、慌てゝ隣室へ駆け込んだ。
 彼は突然、くしやツと、一見すると笑つたやうに口もとを引きつらせた。それが彼の、泣き顔なのだつた。彼はグツグツと喉を鳴らしながら、一杯涙の溜つた眼を梟のやうに視開いてゐた。そしてお蝶達が隣室に遠慮して三味線の手を止めやうとすると、彼はきゆツと唇を歪めた儘伏向いて、もつと続けろ/\といふ意味のことを、何かを戴くやうな格構に差し出した両腕を切りに上下に振り動かせて、彼女等にすゝめた。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

「阿母さんだつて、決してあなたの為にならないやうな事を考へてゐなさるものですか。第一ですね、斯んな場合にあなたが家をあけて、その上あんな場所に泊り込んでゐるなんて外聞が悪いぢやありませんか。」
「僕は、帰つてはやるが、阿母とも岡村清親とも、顔を合したつて口は利かないよ。承知だらうね。」と
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