? 旅を想つたりしたのも呪はれた自分の頭の自責を逃れるための方便だつたのかも知れない。
自分は、激しい鼓動に戦きながら、ふらふらと其方に手を伸した。
「書くことに迷つてゐる自分! 無能! 行き詰り! 苦し紛れ!」
つい此間、親不孝な男と称ふ題名の小説を文壇に発表して多くの嘲罵を買つた自分は、また同じやうな手を盗人になつて差し伸した。
「あ……」と、自分は絶望的な嘆息を洩した。――自分の手は棒になつて動かなかつた。自分は、明るい電灯に曝されてゐる骨張つた手を視詰めた。指先を憎体な熊手のやうに曲げて凝つと、指先きばかりを視詰めた。頭は一つの魯鈍な塊りに過ぎなかつた。――間もなく自分の腕は、渡辺の綱に切り落された間抜けな妖婆の薪のやうな腕になつてポツコリと転げ落ちた。
考へるだけに呪はしいと思ひながら自分は、この間うちからあれ[#「あれ」に傍点]にばかり目をつけてゐたのだ。その自分を自ら遠回しにごまかしてゐたらしい。だが自分の心は飽くまでもあれ[#「あれ」に傍点]に根元を握りしめられたまゝ、異様な無性を貪つてゐたのだ。
「いよ/\となれば――」
創作家であるべき自分の胸の底には、斯ほどにも菲薄な望みが、動物的な眼を視張つてゐたのだ。だから東京にゐる間も、あんな吐息をつきながらも何処かに薄気味悪い落つきを蔵してゐた。
だが、自分は、いよ/\となつた今、思はず腕を凝固させてしまつたのである。自分の右腕は、あのやうに浅猿しい姿に変つて生気なく転げてゐた。――自分は、その薪のやうな腕を拾ひあげると、ボコボコといふ音をたてゝ木魚に似た頭を、痴呆的な顔をしてセツセツと叩いてゐた。……「あゝ、俺は旅に行かなければ救はれない。」
母は、昔から日記をつけてゐるのであつた。その手文庫の中には母の今年の日記が入つてゐる筈だつた。
自分は、それを偸み見ようと計つたのである。偸み見て、小説の材料にしようとたくらむだのである。
何故母の日記に、自分が左様な醜い好奇と、自分にとつては小説的どころではないが或る意味で小説的な誘惑を強ひられるか? 何故自分が斯んなにも浅猿しい亢奮をするか? の記述は省くが、あの「親不孝な男」を読んだ人にだけは想像がつくかも知れない。――この頃自分は、親しく往復してゐる友達からも、どうも君のこの頃書くものは好くない、退屈だ! と云はれてゐる。
母は、昔から
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