耽念に日記をつけてゐる。
 年の暮に、自分の手を引いて書店に行く母は、
「博文館発行の当用日誌を――」と尋ねるのが常だつた。大晦日の晩に、その年の最後の頁を終ると、自分は覚えてゐる、母は、可成り仰山に感慨を含めた動作でパタリと日頃とは稍違ふ音をたてゝ閉ぢ、箪笥のやうな開きのついた黒い文庫の錠をあけて、厳かにこれを収めた。そして改めて坐に戻るとこの手文庫の蓋をあけて代りの新しい日記帳をしまつた。自分は、毎晩母と机を並べて、母から初歩のナシヨナル・リーダーや、スヰントン・リーダーとか、論語などの講釈をきいたのであるが、その頃には自分の前で母は日記を丁寧につけてゐるのであつた。――これは余外な附りだが、母は、リーダーをりいどると発音した。この町に初めて英語を輸入したといふローマ旧教の日本人の老宣教師から習つたといふ何らのアクセントのない発音で、いろはを読むと同じやうな調子でシーダボーイエンドダガール(See the boy and the girl.)とか、スプラーシユドダオーター(Splashed the water)とか、スピンアー[#「アー」に傍点]トツプ、スピンアー[#「アー」に傍点]トツプ(Spin a top)などゝ棒読みした。自分は、独楽のことをアートツプと覚えた。
 日記は誰も他人が見るものではないから、お前も自由につけるが好い、思つたこと、出遇つたことを善し悪しに関はらず隠さずに誌すのだ。
「私も、さうしてゐる。」と自分は母から教へられたが、一月以上つけたことはなかつた。自分は、日記帳を絵で汚してゐたが、母は決して自分のそれに手を触れなかつた。それが証には、時々、つけてゐるか? を訊ねられて自分は嘘をついたが、嘗て露見した験はなかつた。そして、毎年自分も一冊づゝ与へられた。口にこそ云はなかつたが、吾々は、日記は、見せるべきものでなく、見るべきものでもないといふ観念に不自然でなく慣れてゐた。
 吾々には、置き忘れても日記を他人に見られるといふ不安はなかつた。
 あの儘の手文庫が、雛箱の蔭に別段あれ以上に古くもならず、手持好に艶々とした光沢を含んでゐた。
 藁に縋るやうな自分の眼は執拗にあれ[#「あれ」に傍点]に惑かされた。
 また、自分は腕を伸した。だが、蓋に触れた自分の手先きは、激しく震えて如何しても自由にならなかつた。可笑しい程、蕪雑に震えた。

 三
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