冬の風鈴
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あれ[#「あれ」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)伸び/\
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 三月六日
 前日中に脱稿してしまはうと思つてゐた筈の小説が、おそらく五分の一もまとまつてはゐなかつた。それも、夥しく不安なものだつた。ひとりの人間が、考へたことを紙に誌して、それを読み返した時に自ら嘘のやうな気がする――それは、どちらかの心が不純なのかしら? この頃の自分は、書き度いことは全く持つてゐないと云ふ状態ではないのに。
 言葉が見つからないのか!
 今日になれば、あれ[#「あれ」に傍点]もこれ[#「これ」に傍点]もあきらめてしまはなければならない――など今更のやうに思ふと、形のないあれ[#「あれ」に傍点]やこれ[#「これ」に傍点]が今にも形になりさうな気忙しさに打たれ、かと思ふと反つて晴々しくホツともした。
 母が、どんなに気をもんでゐることだらう! どんなに待ち佗びてゐることだらう!
 そんな思ひ遣りで、一つは事務的な鞭韃を自ら強ひて今日まで伸び/\にしてしまつたのであるが、愚かなことだつた。
 どうせ無駄に棄てるべき原稿で、続けることを思ふと退屈より他に何の感情も伴はない汚れた紙片は、焼き棄てる間もなかつたので机の抽出しに無造作に投げ込んだ。そして、稚々たる感激を故意に煽つた。――「九日を済ましたら直ぐに旅行に出かけよう。」
 一刻も早く帰らう――と思つた。こんなことなら正月のうちに計画した通り、あの時東京を離れた方が得策だつたに違ひない。それにしても小説に没頭するやうになつてから反つて「非芸術的」になつたやうな矛盾に打たれる。
 思ひきつてしまふと、それでもセイセイとして何か世俗的とでも称びたいやうな沾ひのない安らかさを感じた。流れに添つた温泉宿の一室で、現在の頭の中には夢にもないやうなことを切りに書き続けるであらう自分の姿が花々しく想ひ浮ぶ。何しろペンをたづさへて旅へ出るなどと云ふことは始めてなのだ。
「お前達だけはヲダハラにとゞまつても好いね。」
「それでも好い。」
「五月頃になつて此方には帰らうかね。」
 ほんの一分違ひで決めて来た汽車に乗り遅れたので、吾々は停車場で二時間ほども待たなければならなかつた
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