る。それだのに自分は机に凭つてゐる。昼間、お園の処で少しばかり飲んだが、それも水のやうに白々しく今になつたらすつかり忘れてゐる。いつかうちのやうに、あそこの家で酔つたりなどしないで好かつた――そんなことまで思ふと、そこでも、この自家でも往々酒の上で演じた様々な痴態がまざまざと回想されて、ゾツとした。
「××ちやんは何処へ行つたの?」
「出かけたの?」と、母が妻にきいてゐるのが聞えた。にぎやかな夕食が始まつてゐた。
「あたしも少しお酒を飲んだら、こんなに顔があかくなつてしまつた。」
 のぞきに来た妻は、自分に飯のことを訊くと、自分は、もうひとりで済してしまつたと答へて、普段机に向つてゐる時と同じやうに素気ない表情をしてゐるので、妙な顔をして引きさがつて行つた。
 屹度自分の眼は猜疑の光りに輝いてゐたに違ひない。――自分は、犯罪者のやうに夢を知らないおぢけた態度で周囲を見廻したり、平和な彼方のまどひに気を配つたりした。
 前の日に片づけたのだと母が云つた雛の箱が床の間に載せてあつた。自分には女のきようだいがないので、これは祖母と母の昔の雛ばかりなのだが、そんなものが好く残つてゐたものだ。自分は、それに惑かれやうとしない心を無理に結ばうと試みた。
 在るお雛様を飾らないと、節句の朝にお雛様は自らツヾラの蓋をあけ、行列をつくつて井戸傍に水を呑みに来る――祖母は、よく子供の自分にさう云つた。自分は、雛に関する愉快な思ひ出に耽らうとしたのだつた。祖母の話は、今の自分にも多少気味が悪い。
 昨べ自分は、ふとそんな話を母に訊ねたら母は苦笑して、私は楽しみに飾つたのだ、その晩には十二時近くまでも起きてゐた――と寂しい慰めを求めたやうに云つた。今では、母と次郎だけの家庭なのに、この家の雛節句の宵はどんな様だつたらう……Flora がアメリカに帰る時に、自分達は雛を送つたことがある。母が不服さうな顔をしたが自分は、母の古い雛を一対混ぜて、あの祖母から聞いた話を戯談らしく云ひ添えたが、彼女は覚えてゐるかしら?
 自分は、頬杖をして成るべく呑気な回想を凝らさうとしたが、如何しても自分の心はキレイにはならなかつた。
 自分は、おそろしく、床の間の隅の母の手文庫に心を惑かれるばかりであつた。子供の時から見慣れてゐる楠の手文庫である。自分の心は、いつ頃からあれ[#「あれ」に傍点]をねらひはじめたか
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