際にはその辺に人影がなくなる瞬間である。)凝つと、降つて行く箱に呼吸を合せてゐるらしい不思議な深呼吸を続けてゐるのだ。私は、昇降機よりも反つて彼の挙動に興味が涌いたので、ずつと後方に退いて秘そかに彼の運動を注意してゐた。下降客が戸口に集り、1・2・3・4・5――と昇降機が再び針を回して昇つて来ると彼は、指針が7に近づくまで乗客のやうにそれを視詰めてゐるが、いざ到着すると素早く片方に身を退けて、下降の客が乗り切るまでのほんの束の間、巧に空呆けて白を切り、さて間もなく下降の段になると、またしても丸橋忠弥に早変りである。
 若しかすると自分も先程《さつき》は彼と似たやうな芝居を演じてゐたのかも知れない――斯んなに群衆の出入が夥しく、凡そ足跡の絶間は十秒の間もなさゝうに思へるのであるが、斯んな処で斯んな風に敏活に呼吸を窺つて、身を換してゐれば、あんな奇体な動作を繰り反してゐても誰の眼にも触れずに済むものか、斯んな合間でこそ反つて大胆な犯罪などが行はれるといふものか、実に雑鬧の流れの合間には、束の間のエア・ポケツト見たいな白々しい間隙が生じてゐるものだ――などと思ふと私は不図、先達て吾々の総理大
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