ドの表紙のついた最も小型なヨハン・ゲーテのバースデイ・ブツクを買つた。御承知ではあらうが、それは夫々の頁々にゲーテの言葉が二三行宛抜萃されてゐる。キーツ、シエレイ、バアンズ、テニソン――種類は夥しい、求める人の好みに依る。
小山栄徳氏の署名頁の上空には英訳で、
「兵士の歌なり、今日は黒パン、明日は白パン――」が引用されてゐた。
今朝私は三原に廻ると、恰度出掛けのテル子と伴れになつた。三原の娘である。今は、もう日本橋に店を持つてゐるわけではない。下谷で養子を迎へた毛糸小売店の女房である。
「昨日栄どんに遇つたよ。デパートに務めてゐるんだつてね。」
「えゝ、妾今日栄吉に用が有るのよ。」
「あんなに大勢ゐたあの時分の店の人達は大概何処にゐるの?」
「……いろ/\――。けど、大抵この辺に務めてゐるのが多いわ、うちの得意先だつたお店に――」
「ね、テルちやん。」
私は、デパートの食堂で午飯を食べてゐた時、不図話頭を転じて呼びかけた。
「此処に署名をしてお呉れ。」
するとテル子は鋭く舌を鳴らして、赤くなり、視線を反向けた。凡そテル子の趣味に反する出題であることは承知の上で私は、寧ろ意地悪の
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