……」
 テル子がそんなことを云つて嗤つたので私は得意気になつて、
「テルちやんも、もつとダンスを習つたら何うなの。僕は日米しか知らないけれど彼処の昼間を知つてゐる?」などと水を向けると、
「藤田さん――でしたわね、昨夜の人? 途中で逃げちやつたわね。」と話頭を転じた。彼女は何時でも私が幾分でも得意気な顔をすると相手にしないのが習慣である。
「昼間の切符は半額で十枚一円だよ、レコードで。練習は昼間が好いよ。」
「そんな暇なんてないよ。槙町の綺麗な人なんて来るでせう。」
 二階の壁に私が学生の時分に描いた「三味線を抱へてゐるテル子」のスケツチ板が何うして残つたものか古びたまゝ懸つてゐた。あれはテル子が二十歳位の時であつたか? などと私が細君に説明すると感心して眺めた後に、
「聞かしてよ。」と望んだ。
「本郷座に出かけて(日本橋)の芝居を観たのはあの時分だつたね。花柳のお千世にお前が逆《のぼ》せて、困つたことがあつたね。」
「勘弁してよ、そんな話……」
 テル子は顔を赤くして、非常に含羞んだ。
 八重洲通りに去年の秋頃から失業者のための夜店が並び出た。二三日前の晩に私はこの三人で散歩に出か
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