街の謂であるらしかつた。私は、断髪洋装の細君の思惑を気遣つて、激しく辞退の首を振り、
「日米のダンス・ホールへ行く約束だつたね。」
と云つた。実地踏査と称して毎日出歩いてゐながら、おでんやの段の周囲にばかりうろついてゐたことが顧みられた。で今度は私が藤田氏の腕を囚へて無理矢理に立ち上り、私は物々しい口調で、河岸のすし屋が、いらつしやい/\と呼んで呼び込む変な事になつてしまつたとか、それにしても、これらの風景の真中にあるキリンの橋に明治四十四年三月と残つてゐるのは感慨無量ではないか――などと独白しながら、幾分もう春めいた夜気の大通りに出た。細君はテル子夫妻の案内で、今宵はぢめて中華亭の金ぷらを知つた――などと私にさゝやいだ。藤田氏は途中で巧みに逃げてしまつた。
八
いつもなら夫と伴れ立つて下谷の店に出かけるテル子であつたが、もう一日休む――と云つた。テル子の家は、呉服町の、とある一間幅の露路にある小さな二階家である。私達はこの二階に五日も逗留してしまつた。
「斯んなところに住んでゐながら、デパートに歯医者があることやら何とかゴルフが出来たことやら、あべこべに教つたりして
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