階の座敷には先の若槻宰相の筆になる扁額が懸つてゐたと思ふ。おそらく毎夕四合壜を一本宛晩酌にとるといふ先の宰相は、この家の「大関」酒を愛好さるゝのであらう――だがたしかに宰相の額であつたか何うかはウロ覚えであるが、私は時々お光さんのゐた酒場へ行くには未だ時間が早いと思はれる明るいうちなどに、杉の葉の目印の格子をあけて此処の土間の飲み場に現はれることがあつた。
 この時土間の腰掛けにゐた客はその疳の高ぶつた親父と、風船的陶酔者の私と樫田とだけだつた。――然し、三つ四つの露路を何うして越えて来たのか、もはつきりしなかつたのであるから、見当だけでなだや[#「なだや」に傍点]ではなかつたのかも知れない……私は、たゞ、妙な細い声で、
「おゝ、私は何処の窓からこの痛ましい小鳥を放したら好からうか――」
 と、思ひ詰めてゐた事なので、つい/\口に出しては、ぼんやりと天井に眼を放つてゐたのだらう。
 と、一度落ついたらしかつた親父は、また堪らなくなつて、
「やい/\/\!」
 と角頤をしやくりあげた。――「ヘツ、嗤はせやがら――馬鹿野郎!」
 私は、慣ツとして、止せば好いのに、
「煩えや!」
 と、急に
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