臣が不慮の災禍を蒙つた時の、何かの雑誌で読んだ実見者の記事のことなどが思ひ出されて、あしのうらが冷たくなる感がした。
 とも角彼奴の眼つきは尋常ではない――私は、そつと、その男の背後に忍んで更に注意した。

     四

 私がその時の怕《こわ》かつた感想を洩らすと樫田は、真ツ赤になつて、悲しさうに眼を伏せてしまつた。
「兎も角俺は、此奴、怪しい奴だと思つて懐ろの中で拳を固めたぜ。」
 私は、意地悪くそんなことを云つた。「漁色の悪漢といふのは就中紳士態を装ふた男が多いといふ話ではないか。――あゝ[#「あゝ」に傍点]は云つたものゝ無論大それた犯人とは思ひもしなかつたが、婦人をつけねらふ不良の徒ではなからうか? とは思つたね。聞いた話であるが或種の不良の徒はあゝいふ盛り場などに出入して、働く乙女の健気な様に魅せられ、様々な甘言を以て誘惑しようとする者があるさうだね。だから此奴、屹度|昇降機《えれべーたー》のジヤンダークでも見染て、毒牙をといでゐる奴に相違ないと見極めたね。」
「馬鹿々々しい。そんな話はおそらく出放題だらうよ、あんな働き振りをしてゐる勇敢な娘達が、そんな奴の手になんて乗るものかえ。デレ/\して近寄つたりしたら小気味好くはね飛すに決つてゐるさ。」
「それは、ほんとうか、そんな場面があつたこともあるのか?」
 私は仰山に訊き返した。何故なら私は、九十人乗り、六十馬力、東洋一の大エレベーター――それほどのものを、乙女の身で、いとも朗らかに、(三十分宛の交代だから、別段疲れることもなく、寧ろ他の受持よりも愉快であるさうだ。)運転してゐる態《さま》を見て最も健全なる魅力を感じたので、是非ともゲーテの手帳に署名を乞ひたく思つたのであるが、誤解されるおそれがあると思ひ直したからである。
「あらうと無からうと、誰もそんな下らぬ場面を想像した者もあるまいさ。」
 樫田は云ひ返した。今度は私が顔の赤くなる思ひに打たれずには居られなかつた。
 七階の昇降機の扉の前で怪し気な挙動を繰返してゐた男は、私の中学時代の友達の樫田であつた。
 六十馬力の大エレベーターは樫田の会社が拵へたのである。
「国産品だよ。」と彼は云つた。
「ねえ、樫田――」
 と私はネクタイの形を直しながら質問した。「あのリフトの昇降の速力は、乗員の数に寄つて常にまち/\だが、標準は何れ位の速さなんだ?」
 す
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