日本橋
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)首途《かどで》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)屹度|昇降機《エレベーター》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)これから[#「これから」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いち/\これを
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     一

(第一日)快晴――私は八時に起床して、いでたちをとゝのへ、首途《かどで》の乾杯を挙げ、靴を光らせ、そして妻の腕を執り、口笛の、お江戸日本橋――の吹奏に歩調を合せながら、この武者修業のテープを切つた。麗かな朝陽のなかには、もう春の気合ひが感ぜられる。
 これから旅へ向はうとする気色ばんだ汽関車、終夜の旅を終へて眠りの庫《くら》に入らうとする車達の入り乱れた響きを脚下に感じながら八重洲口へ向ふ長い歩廊の窓から、さて私が、これから[#「これから」に傍点]八日の間、見聞の眼を虎のやうに視張つて訪問する筈の、お江戸日本橋の空と甍を眺めると私の胸は、恰も長い航海の後に見知らぬ国に着いたかのやうにときめいた。私は、予定の如く書店丸善へ先づ赴かなければならないのだ。予定とは? 私は、その店で一部のバースデイ・ブツクを買ふつもりなのである。そして私はこの稿のためにこの街を訪れる限り、そこで出遇つた紳士淑女に、いち/\これを突きつけて、夫々のその栄ある誕生日の日附けの下に親愛なる署名を乞はう――と計画したのである。そして私は、その冊子を記念として永く蓄へ、また、この行程の終つた節に、きらびやかな贈り物をしよう――と、妙な計画をたてたのである。
 だから私は、誰とも言葉を交へぬうちに記念帳を買つてしまはなければならなかつたから、改札口を出るかいなや伴れの者の腕を執つたまゝ傍眼も触れずに丸善へ駆けつけたのである。が、私が、中将湯の前に来かゝつた時である。背後から私の名を呼ぶ者があつた。――見ると、真新しい黒オーバをまとつた銀行員風の若い紳士である。知らぬ人だ。
「やつぱし貴方だつた。私は、電車の中からそれとなく後をつけて来たんだが、お伴れがあるし、それに歩き方と胸の張り具合が何うも貴方らしくなくも思はれたので……」
 など、彼が長い前置をしてゐるうちに、その微笑の度毎に現はれる八重歯で、私は突然少年の彼を
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