思ひ出した。
「やあ、栄吉君!」
と私は云つた。が、栄吉君! では失敬なことを私は知つてゐる。称ばなければならぬ苗字が思ひ出せぬのである。私は、学生の時分叔父の知合ひから、本石町の裏通りにあつた三原といふ毛糸の輸入商の三階に永く寄食したことがあつた。彼は、その頃の少年店員の一人であつた栄どんである。名前を称ばれる時代と、苗字に移る時には、或る時期が来るとその一日で急に変つてしまふ、そしてその以後若し名前で呼ばれると大きな見識に係はるのだ。その時が来ると急に袂或ひは背広に代つて、姓にさん[#「さん」に傍点]の敬称をつけて称ばれることになつてゐたが、その規律の正しさに私は感心したことがあるのだ。で私は、
「通勤なんだね、此頃は――。そして、スヰート・ホームは何処に営んでゐるの?」
と質問した。と彼は、勤め先と住宅が夫々誌してある「小山栄徳」といふ名刺を、鰐皮の名刺入から取り出した。
「小山君、君がそんなに立派になつたと同じやうに、街のやうすもすつかり変つたね。」
さう云つて私が、今日の私の目的を説明すると小山氏は、冗談でせう! と一蹴した。
二
私は、前日海老茶ビロウドの表紙のついた最も小型なヨハン・ゲーテのバースデイ・ブツクを買つた。御承知ではあらうが、それは夫々の頁々にゲーテの言葉が二三行宛抜萃されてゐる。キーツ、シエレイ、バアンズ、テニソン――種類は夥しい、求める人の好みに依る。
小山栄徳氏の署名頁の上空には英訳で、
「兵士の歌なり、今日は黒パン、明日は白パン――」が引用されてゐた。
今朝私は三原に廻ると、恰度出掛けのテル子と伴れになつた。三原の娘である。今は、もう日本橋に店を持つてゐるわけではない。下谷で養子を迎へた毛糸小売店の女房である。
「昨日栄どんに遇つたよ。デパートに務めてゐるんだつてね。」
「えゝ、妾今日栄吉に用が有るのよ。」
「あんなに大勢ゐたあの時分の店の人達は大概何処にゐるの?」
「……いろ/\――。けど、大抵この辺に務めてゐるのが多いわ、うちの得意先だつたお店に――」
「ね、テルちやん。」
私は、デパートの食堂で午飯を食べてゐた時、不図話頭を転じて呼びかけた。
「此処に署名をしてお呉れ。」
するとテル子は鋭く舌を鳴らして、赤くなり、視線を反向けた。凡そテル子の趣味に反する出題であることは承知の上で私は、寧ろ意地悪の
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