なつてしまつたわけさ。」
「酷い奴だな。――此頃彼奴は蜜柑畑のリラを追ひ廻してゐるさうだが、消息を聞かないかね?」
「聞かない。」
 と滝本はかぶりを振つた。蜜柑畑の働き手である此処の家の留守居の年寄の娘が、リラの花のやうな感じだといふので彼等はさう称んでゐたが――。蜜柑の季節になるとカーキ色のシヤツで、まるで少年のやうな姿で、畑の手伝ひをしたり、口笛を吹きながら御者台に乗つて問屋へ運ぶ荷物の馬車を駆つたりしてゐる八重といふ娘である。「八重《リラ》なら大丈夫だよ。太一見たいなあんなでれ/\した野郎が、変に云ひ寄つたりすれば、あの鞭でひつぱたかれる位ゐのものだよ。」
「……ネープのことを思ひ出すと俺は、何うしても太一の奴と……」
 武一は、もう今ではこの一番《ひとつが》ひより他に残つてゐない伝書鳩《ハンス》を籠から取り出して、可憐で堪らなさうに頬を寄せてゐた。
 滝本は、いつか武一が血に染つたネープの骸《なきがら》を拾ひあげて、泣いて――何う慰める術もなかつたあの日の事を思ひ出した。篠谷の倅の太一郎がステツキ銃でねらひ打ちにしたのである。
 銃声を聞いて――ネープの姿を見送つてゐた武一と
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