の――」
 滝本は百合子の手を執つて、
「知らない。」と不安さうに呟いた。
 すると百合子は急に真面目な顔をして、
「いつそのこと、あんな事件を背景にして、芝居を演つてゐるつもりにならない。当分の間、当り前の言葉なんて皆な止めにしてしまつて、中世紀のことにでもしてしまはうぢやないの――さうだ、妾、ほんとうに変装して来るから、守夫さんもそのつもりで沢山言葉を考へておいてね。」
 そんなことを云ひ残すと百合子は靴を穿いて、窓から降りた。
「母さん、お待遠様――妾、もう外へ出ましたよ。」
 玄関の方で百合子の声がした。――滝本は見送りにも出ず、ドアに鍵を降すと、そのまゝベツドにもぐつてしまつた。

     五

 その晩も翌朝も百合子の姿は現れなかつた。便りもなかつた。――滝本は翻訳の仕事にとりかゝつた。
 町|端《はづ》れの河堤の桜が咲きはぢめて、夜桜の雪洞が燭いたから花見へ行つて見ないかと近所の若者に誘はれたが滝本は、昼も夜も自分の部屋に引き籠つてゐた。庭先に出て見ると、この村と隣りの町との境ひになつてゐる桜の堤《どて》のあたりが、月夜の下に、明るくどよめいてゐるのが遥かに見降せた。

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