何でもないぢやないの、そんなことは初めから解り切つてゐること――」
 Sは私、H・タキノは私の父の名前である。
「……あゝいふのは、あれは私立の役場なのかしら?」
「どうだか――」
「尤も阿父さんは、一寸と違ふんだ、気が小さいところは同じなんだが、役にも立たないところで向ツ肚を立てるんだ。気が小さい!
 いや、俺にはとても肚なんぞ立てることは出来ない、どんなことがあつても……」
「死んだといふことは云はなかつたの?」
「うむ――」と、私は、嘘のつもりでもなく、面倒なからでもなく、ぼんやり点頭いた。その何々の役場で私は、そのことは告げたのだつたが、此方の音声が低く煮え切らないので係員には聞えなかつたのか、事務以外のことは一言でも取り換すのは面倒らしく、その儘、
「順番が来れば名前を呼ぶから、そつちの方で待つてゐろ。」と、酷く横柄に命令して、ポンと窓を閉めてしまつたのである。私は、H・タキノの長男で、Hは死んだのだといふことを解つて貰はないと、後になつて疑はれやしないか――係員の高飛車な、そして他人に対しては疑りを主にしてゐるやうな眼差しを見て私は、困つたのであるが、また窓に手を掛けるのも
前へ 次へ
全78ページ中61ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング