もさうだなア。」
「でも、あなたは幼《ちいさ》いうちは方々へ出かけたことがあるでせう?」
「いつか一年ばかりお前と一処に熱海に住んだ位ひのものだよ。」
「だつて、あれは――」と、彼女は、情けなささうに笑つた。
「でも、家にゐるよりは好かつたと云つてゐたぢやないか?」
「批べればさうかも知れないが……」
「ぢや、今の東京は?」
「知らないわよ。」
 笑ひながらではあつたが、さう云つた時に彼女は、微かに溜息を衝いたらしかつた。――彼女は、どんなに金銭には貧しくとも己れの生家の、貧しきが為に少しも純情を失つてゐない同人達の方が遥かに好もしい、初めはありふれた女らしい生活上の豊かな夢を抱いてこの男と結婚したのであるが、片鱗にもそれに報はれたことはなく、そんなことよりも第一食物などと来たら生家のそれよりも貧弱で、それをまた一同が不平な顔もなく百年の習慣のやうにボソボソと喰ひ、稀に珍らしい料理などが出ても誰も味などに注意する者もない、気の利いた料理の名前などは彼女程度にも知る者はなく(実際彼女は、結婚当座こゝの食物は碌々喉に通らなかつた――先づ彼女はそれを軽蔑した。)、そして、口の先きでは(死んだ
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