ゐたに相違ない、眼に映る様々な物象が己れの悪い心境にのみ関聯して、悉くが否定と「あやふや」と、懶惰と、白つぽい怖ろしさとの奈落に沈んで行くのが常だつた。また、日常の瑣細な様々な不安心などは、一瞬間のハズミに目醒しい突風に煽《あふ》られて五体諸共奈辺にか飛び去り、吻ツと白々しい峯の頂きに休んだ、かと思ふと忽ち断崖から脚を滑らせる思ひにゾツとして慌てゝ我に返ると、始めから悸々と凹めた手の平に息ばかり吹きかけてゐた自分に気附くのであつた。一息毎に刻々と気が滅入り込むのを、手をくだす術もなく見殺してゐる心で私は、ハアハアと手の平に息を吹きかけてゐた。
「今日こそは朝起きをしようと思つてゐたのに、また失敗してしまつた。」
私は、乱雑に首を振つて舌を鳴らしながら立ちあがると、剃刀を取り出し、ヒタヒタと強い鞭の音を立てゝ革砥を合せた。
[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]
「この頃の井戸の掘り方は、前のとは何だか大分様子が違ふやうですね。」と私は母に訊ねた。私の記憶では、十年ばかり前に一度以前の家の方で見て以来だつた。――私は、声一つ立てずに庭の隅でコツコツと働いてゐる二人の職人の様子を見て
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