があると云ふ話を、青年になつてから私は何かの序でに母から聞いたことがあつた。
「ぢや、俺は斯うしてしつかりと口を圧えてゐるから、お前、俺にやつて見な。」
終ひに祖父は、屹度斯う云つて二つの手の平で口を圧えて、私の近づくのを待つた。私は、静かに近寄つて、祖父の鼻柱をめがけて思ひきり強く、ハアツ! と息を吹きかけるのであつた。すると祖父は、重々しく、研究的に首をかしげて、
「うむ、うむ――ちつとも臭くはない。」と点頭いた。疑念を抱いたりすると私が直ぐに気嫌を悪くするからであつた。疑念は、母にのみ許してゐたのだ。祖父のこの甘い検査に合格すると私は、大手を振つて順次に祖母や母の前で同じ真似をした。祖母も容易く点頭いた。母は、このやうにこれが[#「これが」に傍点]稍遊戯的になつてゐる場合でも決して容易くは点頭かなかつた。だから私は、母は一番後回しにするのが常だつた。――兎も角、皆な私にとつて忠実な検査員達であつた。
母が鼻をつまんだ様子を見て私は、ふとそんな思ひ出に走つた。――現在でも、殊に最近私は、時々口臭の不安を感ずると、そつと周子に頼んで験して貰ふことがあつた。彼女は、決して鼻をつまむ
前へ
次へ
全78ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング