顔を見た。私は、ドキツとして、一言問題のことを話すと、
「何あんだ、ハ……」と笑つた。さつきは四五人だつたが、いつの間にか待つてゐる人がごたごたして、其処の狭い控所は煙草の煙りで濛々としてゐた。
 父は、つまり傍聴人として入つて行つたのである。原告も本人が来てゐた。
 中学の化学室のことなどを思ひ出しながら私は、そこに入つて行つた。――傍聴席には、父がたつた一人の傍聴者として腰掛けてゐるだけだつた。
 原告は、非常な能弁家だつた。その弁舌だけを聞いてゐると、S・タキノがたしかに間違つたことをしてゐる人間らしかつた。
 私は、兵隊のやうに直立不動の姿制を執つてゐた。いかにも公平無私な容貌の判官を私は、ひたすら信頼するだけの心で無言に立ち尽した。いつにもそんな姿制を執つたことがないので、その頭から踵までが棒のやうに堅くなつてゐるのに淡く肉体的の快感を感じた。私は、眼ばたきするのも遠慮しながら、此方の云ふべき番になると、たゞ極めて慎ましやかに、
「は?」と、聞き返すやうな返事をしたり「はい。」と、わけもなくきつぱりと返事したりしてゐた。……せめて、この男は少し耳でも遠いのかな? とでも思つてくれゝば好いが――終ひには私は、原告の法律的術語の羅列があまりに流暢であるのに反して、まつたくの唖である自分が少々きまり悪くなつて、判官達に対してそんな途方もない空頼みを念じたりした。原告は、番になると稍々得意気に益々とうとうと弁じたて、次に私の番になると変りなく「は?」と「はい」とより他になく、また彼は軽いセヽラ笑ひを浮べて立ちあがると(原告が何か云ひ終ると腰を降すのが私には、大胆不敵に見えてゐた。)巧みに被告の非を述べたてた。そんなことが三四度繰り返されて、(私は、殆ど感覚を失つてゐた。)活気の溢れた原告が大いに被告の非を申告してゐる時だつた。傍聴席から突然、大声で父が怒鳴つた。
「嘘をつくねえ、あれやなア……あの境ひはな、昔からあの柿の木が眼印なんだ、それを勝手に……」
 私は、吻ツとした。やつぱり父と一処に来て好かつた――と、わけもなく嬉しい気がして、もう少しで振り向くところだつた。すると、判官の顔は(一寸との間驚いたらしく、未だ続いてゐる傍聴席の声に打たれたが)忽ち屹となつて、
「あの傍聴人は何だ! 黙れ!」と、大喝した。私は、傍聴席から声を掛けるのは違反であるのか、と初めて
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