ぜえ、遥々と汽車に乗つて来たといふのに一日まる潰しさ。」
「あなたは、やり損ひぢやなかつたの?」
「うむ――大丈夫だつた。」
「威張る程のことでもない。」
「……変なのは俺ひとりさ、それに今日は、阿父さんの古服を着て行つたらう……少しダブつくんで歩き憎くかつた。」
「つまんないことを、あんたは……変な風に云ふのね。」
 いつもさうだつたが、この時は殊に眼立つて周子の素振りは、そんな私の云ふことを無下に稚戯にして享け容れない風だつた。
 私は、関はず続けた。――「尤も、前に一度俺があそこへ行つた時のことを俺は、妙にはつきり覚えてゐるんだ、その時は阿父さんと俺と一処に行つたんだ、ホラ、家から使ひが来て俺がわざ/\熱海から出かけて来たことがあるぢやないか。――さうだ、二人とも同じやうな白い服を着て行つたから夏だつたんだ。阿父さんが死ぬ前の年の夏なんだ。」
「そんなこともあつたかしら。」と、周子は飽くまでも無感興を固持してゐた。私は、さつきから可成り我慢してゐたのだが、急に彼女の白々しさが醜くゝなつて、
「チエツ! 面白くねえ奴だなア、もう話さないよ。」と、叫んだ。――何故か彼女は、いつもと違つて私がそんな癇癪を起しても、眉ひとつ動かさずに凝ツとしてゐた。つまらないといふ風に扱はれると私は、此方もつまらなく自分が馬鹿に見えて、一つは間が悪るかつたのである。――彼女は、その私には頓着なく何か別の不快なことを考へてゐるらしく、時々眼を瞑つて軽く首を振つたりしてゐた。
 私は、憤つた動作で二三度勢急に盃を飲み干し、暗い庭に眼を放つた。闇のなかでも、こゝから射す灯火を斜めにうけて、音のない井戸の噴水が仄白く光つてゐた。
「何でも好いから、黙つて突つ立つてさへゐればそれでお終ひになつてしまふよ。」と、父は、私に教へた。
 何々役場の開け放した入口から玄関前の広場を越えたところに、やはり開け拡げた小さな窓があり、其処に何々区裁判所が見えた。――「あそこに行つたつけな……もう二度と行くこともあるまいな……」などと私は、述懐したのである。
 瑣細な土地の境界争ひが、訴訟事件になつてゐたのである。父が、おそろしく憤慨してゐた。
「勝手に向方で間違ひをして置いて、訴へるとは何んだ。自分で行く、自分で行く、一言云へばそれで解ることだ、他合もない、理窟はないんだ、弁護士の厄介になんて誰がなるもんけ
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