何でもないぢやないの、そんなことは初めから解り切つてゐること――」
Sは私、H・タキノは私の父の名前である。
「……あゝいふのは、あれは私立の役場なのかしら?」
「どうだか――」
「尤も阿父さんは、一寸と違ふんだ、気が小さいところは同じなんだが、役にも立たないところで向ツ肚を立てるんだ。気が小さい!
いや、俺にはとても肚なんぞ立てることは出来ない、どんなことがあつても……」
「死んだといふことは云はなかつたの?」
「うむ――」と、私は、嘘のつもりでもなく、面倒なからでもなく、ぼんやり点頭いた。その何々の役場で私は、そのことは告げたのだつたが、此方の音声が低く煮え切らないので係員には聞えなかつたのか、事務以外のことは一言でも取り換すのは面倒らしく、その儘、
「順番が来れば名前を呼ぶから、そつちの方で待つてゐろ。」と、酷く横柄に命令して、ポンと窓を閉めてしまつたのである。私は、H・タキノの長男で、Hは死んだのだといふことを解つて貰はないと、後になつて疑はれやしないか――係員の高飛車な、そして他人に対しては疑りを主にしてゐるやうな眼差しを見て私は、困つたのであるが、また窓に手を掛けるのも怖くて、赧い顔をして引き下つたのである。私は、開け放しになつてゐる入口の傍の腰掛に掛けてゐた。他にも待つてゐる人が四五人居た。
「随分待たせますなア。」
向ひ側に居た年寄の人が、退屈さうに私に声をかけた。――「名前を呼ばれた時に直ぐに行かないと、酷い目に合ひますから……」
「酷い目に?」
「出直しになつてしまふんですよ。帰つてしまつたことになつて、後廻し……」
「気をつけませう。」
私は、隣りが学校で、休み時間だと見へて酷く騒々しいのを心配した。
「私は、少し耳が遠いんでね。――頼みますよ。K・ヤマザキですから。」
「K・ヤマザキ――はい、解りました。」
「あんたは?」
「……あの、H・タキノです。」
私は、一尺位ひの高さのトンネル型の窓ばかりを視詰めてゐた。
「代りだといふことも云はなかつたの?」
周子は、私の話を打ち絶らせたさゝうな調子で訊ねた。私は、彼女と反対に話がひとりでにはずんで行くらしかつた。
「代りではいけないんだよ。好い位ひなら俺だつて勿論行きはしないさ。」
何だか変だな、代りでもあの分なら好いわけなんだがな? などと思ひながら私は、厳めしさうに云つてゐた。
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